2006.02 2度目のデリー(路線バス車内、遠足の児童、リキシャ、他)
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大きな写真集1(DSL用)特選写真集
インド鉄道 / インドで考えたこと

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デリー国際空港の駐車場2002.11.30 23時頃
街灯がちょびっとあるが、下を向いても道路がほとんど見えない。子供の頃良くやった遊びで、足元が見えないように、手に持った鏡で上方を映しながら歩く感じを思い出した。しかしNASA発表の夜の地球だとインドは結構明るい。

乾季で雲一つない空だが、排気ガスが厚いので星の数は東京より少ない。


デリー空港内の男子トイレの小便器は、高く取り付けてあり、176cmの私でも背伸びをしなければ危険だった。子供用を使いたかったが無い。
胴長の農耕民族などの、自分達が属する民族以外の利用者の事を考えないで作ってしまったようだ。アサガオタイプの便器採用など設計が悪い。アサガオで、この高さの異常さは10年前のロサンゼルス空港やエジプト、トルコなど多くの場所で見られる。このような自己中心の考え方が見られる国は、自己主張が強い国民性だからだろう。
私見だが小便器は、子供から大男までが楽に出来るササ舟タイプが良い。



12.1 6:00前のニューデリー市内(ニューデリー駅から西2Kmの町中だが早朝なので街中に人が少ない。)









時差ぼけで早く起きたので、空まだ暗い時刻だがホテルの周りを一人で散歩した。200メートル程歩いたところで、リキシャが来たので乗ることとする。旅行前に「リキシャはインドで一番一般的な乗り物なので、乗らなければならない」と計画していのだがツアーなので「乗れるチャンスはあるのか?」と、心配していたのだ。
リキシャマンは英語がしゃべれない。何とか料金交渉した後、近くの町中を30分程度廻ってもらうことにした。リキシャはオートリキシャより見晴らしが良いので快適だ。しかし、この季節の朝は結構寒い。15℃くらいだ。インドは暑いものと思い半そでシャツでホテルを出たのだが、乗ったらたちまち鳥肌が立った。自転車はチェーンに油気がなくギコギコ音を出す。疲れてくると運転手がハアハアと苦しそうな息をし、気の毒になる。しかし彼はこれで女房、子供を養っている。多分朝早くから東洋人を乗せているのが珍しいのであろう、途中々で運転手に方々から笑顔とヒンズー語で声が掛かった。会話の雰囲気から『朝早くから大変だね』「おう!こいつが声を掛けてきたんだ」『たんまり搾り取りなよ』「へっへバッチリヨ」『乗せているのは韓国人かい』「知らないよ」てなことだろうと思う。
インドでは三星、現代(SAMSUNG、HYUNDAI)等の韓国企業の進出が目立つ。町の飲食店や売店でよく聞かれた質問は「韓国人?」だった。
約10分走ったところで、寒さに耐え切れず戻ってもらった。乗っていたのは15分程度だった。なお、デリーは奄美大島ぐらいの緯度である。


インド到着後、最初の買い物なので、物価水準が分からず、こちらから値段を言って(彼は英語が分からないので、お金を見せて交渉)しまい、結構高く(100ルピー:270円)支払った。しかも支払いかたが分からず、先払いした。後で考えると標準価格は10〜20ルピーか?でも、リキシャは初めてだったので、満足の早朝ドライブであった。


リキシャのお兄さん
















拡大写真(このお兄さんは結構怖い顔だ)
たっぷりもらっているので上機嫌である。
しかしホテル近くに帰って降りたら「ちょっと待ってよ。往復したのだから2倍の料金だよ」と要求してきた。冗談じゃないといって去る。インド人には、お金を得るためのチャレンジ精神が旺盛と言おうか、ちょっとしたチャンスに目ざとくお金を要求する人が多い。インド人は、お金をぼることに罪悪感でなく義務感を感じているに違いない。
この国は「お金を持っている人が気前良くバンバン落としていく文化」の国でもある。彼らも駄目元で、いろいろパフォーマンスを見せたり、要求してくるのだ。それが楽しかったり、面白かったら、お金を渡したり、ちょっと色をつけるくらいは何でもあるまい。5円、10円を巡って騒いだりできるのも”インドの旅”ならではの楽しみ方だが、せっかく金満日本を味わえる国に、短期旅行で行ったのだから、「少しだったら、ぼらせてあげるよ」くらいの気持ちのほうが楽しい。なにせ、問題になるのは日本では「散歩道に落ちていても拾わない程度の金額」、「コンビニでお釣りをもらっても、財布にいれるのが面倒だからと、あゆみの箱に入れてしまう程度の金額」なのである。日本ではもったいないお化けがすぐ出る、けちな私でも気にならない。

普通のインド人は「正直で優しいが貧しい人たち」である。長い間、英国の植民地政策と上のカーストから搾り取られた歴史が長すぎ、19世紀に入ってからは、インドは社会が変化しない国になってしまった。それゆえに今は貧しい。
とは言え、将来は明るいこの国は働いていないと思われる人々が異常に多いのも事実だが、働いている人は懸命に働いている国なのだ。子供への教育も熱心だ。インドで考えた

最近のインドはIT開発で有名である。丸の内でも大勢が働いているよとデリーで言ったら、あれは南インドの産業で、北インドの俺達は関係ないと言っていた。地域意識が強いようだ。
ちなみにインドの言葉は論理的なので、宗教とかプログラムに向いているのだ。
なお、インド人は以外と小柄である。レスラーのタイガー・ジェット・シンの背が高いターバン姿の、好戦的なイメージが強い我々の世代は、構えてインドに入国したりするが、拍子抜けする。平均的な背丈は日本人と同じであろう。特に昔はもっと小さかったのか、各所にある英雄たちの棺の、子供用のような小ささにはびっくりする。

インド門(大きい写真1)2006年再訪時

インド門 (大きい写真2)2002年


ヨーロッパやエジプトにある凱旋門をマネしたように思え、デリーには似合わない建造物だ。。いずれにしろ、インド文化のものではない。日本で言うと例えば赤坂の迎賓館みたいなところだ。大したところではないがデリー都心のシンボルだ。
デリーには@高い建物が無いA大きな商店が無いB都心がないのCランドマークが無いの不思議がある。旅行者は旅行書についている地図をと、にらめっこしていても、どこにいるのか分からない。



ちなみに今年(2005.03)にデリー市の地図を購入した。趣味の問題だが
カーナビなどで自分のいる場所を細かく知らされる状態に慣れている身には、改めてじっくり調べて見たいと思ったのだ。



デリーにあるインド一高い石造塔の世界遺産「クタブ・ミナール(QUTUB MINAR)」こちらは感動する。地震が多い地区だから多少傾いている。12世紀の建物で、また今はすさまじいデリーの排気ガスに晒されているのに装飾の風化がないと思ったら、建物の横で職人さんが修復をしていた。奈良の法隆寺と同じと思う。
外国人の入場料250ルピー(5米ドル)。ドルだと率が良い(ドル:600円(120円/ドル)、ルピー:675円(2.7円/RS))
10層だったが、飛行機がぶつかり7層、72.5mになったという。なお、7層の数え方は分からない。どう見ても5層か6層なのだ。避雷針みたいな棒を入れて7層か?

頂上部分の直径で2.7m、基礎部分の直径は14.3m。また、中には頂上までの379段の階段があるという。各層の間にバルコニーがある。約20年前に小学生が塔の中の階段事故で10数名が死亡した。その日以来観光客は中を上れないし、入れない。
























クタゥブミナール見学の幼稚園児に付き添いのお母さん方は美人そろいだ。(大きな写真集へ 7枚目)インド人が美人コンテストで世界NO1になった人が一番多いというのが分かる。





















ドラヴァルマンの鉄柱
ここには、4世紀から地中に立っているが、錆びていない鉄の柱がある。ほとんど純鉄なので酸化皮膜が強く、錆びないのだそうだ。すごい科学技術である。4世紀とは日本では前期古墳時代なので、前方後円墳などもない時代だ。はにわを作れるのが文明だった。
インドにプロジェクトXがあったら、これは取り上げられる。「21世紀の製鉄業者は、これを建てた鉄職人達を想い、泣いた。我々の鉄は百年も、もたない・・・・。」

60年前の戦争で、鍋や釜をお国に供出し、船や鉄砲にした歴史のある国の民は「よくもまあ1700年間、時代時代の権力者や民衆は、この柱を残したものだ」と関心する。

過去に栄光があるが、現代のインドは社会変革速度が遅いため、貧しい国になっている。そういう意味で、変革が無い最近の日本がちょっと心配になる。ジャパン アズ ナンバーワンからの、この15年間に1700年後とは言わないが、百年後のプロジェクトXに載るものが日本で生まれているのか?なお、鉄の柱は数年前まで触れたそうが今は写真のように柵で囲まれている。ちょっと残念だ。
ちなみに金属工学を学んだ者として、一言いうと、純鉄は鉛のように柔らかいのでコンマ数パーセントレベルの不純物(炭素)が入っている筈だ。


クトゥブ・ミナールの入り口にいた、へび使いのおじさん
へび使いは、インドで絶対見なければならない見世物だ。昔の日本でいう、ガマの油売りや角兵衛獅子のようなものなのだ。
大きなだみ声で講釈をしながらニシキヘビやコブラを手で持ったり、笛をピーヒャラ吹きながら、2匹の鎌首を上げたコブラの口の前に手をやったりする。「どうだい、危ないことをしているんだよ、お立会い!」というところか。笛で踊るのはコブラ、首に巻くのがニシキヘビ。ニシキヘビは左の紫色の籠(一部しか見えていない)に入れている。
一人でしばらく見てから、100ルピー札を渡して、「釣りを50ルピー」と言ったら、「お客さん、冗談じゃないよ、俺は遊びでなくビジネスでこれをやっているんだ。100ルピーでは足りない。もっとよこせよ。」と周りの人がびっくりするような大声で言った。そう言えば、お客が付いているヘビ使いは見たことが無いので客単価が高いのが理解できたし、タイ国での「ニシキヘビの首巻き」は200円くらいしたので、そんなもんかと思って「分かった。釣りはいらないよ」と言ったら彼は笑顔になり、また「おれは遊びではなくビジネスで‥あんたが渡したお金ではとても足りないが我慢してやるよ、お立会い!。‥X・*+・x・・」と大声でしゃべり始めた。後で、ガイドさんに相場を聞いたら20ルピー程度とのこと。彼らは、掴んだ現金は放さない。
小銭が無かったからおつりを貰おうなんていう、けちな根性が通じると思ったのが甘かったのと、ヘビ使いの大声パフォーマンスにしてやられた。

なお、旅行とは贅沢な遊びだ。特にツアー旅行の場合は、10万円以上支払っている筈だ。この翌日、バラナシで蛇使い(蛇はこの写真の3倍は大きかった)の見世物に5ルピー支払っていた別ツアーの日本人旅行者がいた。「日本の物価の1/50だから5ルピーでも、600円支払ったことになるんだ」と真顔で周りに説明していた。
クトゥブ・ミナールの入場料は政府管轄でインド人は10ルピー、外国人は250ルピーだった。政府でさえ、もらう方はこちらの顔を見て銭勘定するものだ。


個人旅行は単独で経験を積むのも目的だから、金持ち臭をぷんぷんさせながらも相手の期待を裏切り値切って、見栄を捨ててケチって、こちらを馬鹿する相手の言うことを聞いて、しかし愛想笑いを浮かべ駄目もとで叩いて、という旅行も正しい姿だ。

しかしツアーという安全圏にいて、吝嗇家であることを表に出さない理由をつけ、ケチの経験だけするなんていうのは、貧相だ。
お粗末なことをすれば、インド人から、内心を見透されてばかにされる。そういえば、東京の高輪で見た犬の飼主マナー標語に「飼主の生きざま見せる、犬の糞」というのがあった。海外旅行標語だと「旅行者の生き様見せる金払い」か。

今思えば、見世物でつりが欲しいなんて言って恥ずかしい。













アライ・ミナール
クタブ・ミナルから200mのところにある。13世紀にクタブ・ミナールより大きいものを作ろうとしていたが、財政難で頓挫した作りかけの塔。石をコンクリで固めてある。表面を彫刻してある石や磨いた石で飾るとクタブ・ミナールのようになる。上の窓は人が立てる大きさだ。
インドには昔からセメント技術があった。そのセメントを使ったコンクリは900年も長持ちしている。日本で20年前に作られた高速道路やトンネルのコンクリがひび割れ落下事故が、ちと情けない。
ちなみにセメントは、紀元前2700年頃にエジプトで発明された。ピラミッドにも使われている。










デリーの町の大通り
99%の車にはサイドミラーはない(2006.02だと70%になっていた)。代わりに車後ろにHornPleaseと書いてある車が多い。「俺の車が邪魔だったらクラクションを鳴らせ。道の脇側に動くよ」と言う意味。後が見えないのに、人も車も道の中ほどを行きたがる。道の脇には牛糞とかごみが多いためか。
ほとんどの交差点はイギリス式にロータリーになっていて、余程大きな交差点でないと信号は無い。道路上の車は前後の車間距離1m、左右の車間距離20cmで行き交う。道路脇に横断を伺っている歩行者がいても車はスピードもハンドルも切らない。歩行者が道路横断するときは、行き交う車の動きを数センチ、数ミリ秒単位で予測し、車に跳ねられないと判断したら素早く飛び出ていく。そのためか、道路を歩く老人や幼児はあまり見ない。
我々のような中高年の日本人も鍛えられていないので、道路横断は無理である。ちょっとした近所でもオートリキシャに乗り移動したほうがよい。

町中の若者や子供比率が高い。男比率も異常に高い。




















オートリキシャの座席下にあるエンジン室。原付並に小さく簡単な構造だ。
オートリキシャのクラクションは、ジョンレノンの名曲「Whatever Gets You Thru The Night」の中で勢い良く鳴り出すアルト・サックスの、「ビー」音である。2006002の旅行時のリキシャ動画。
デリー再訪へ(2006年動画6本)
仲間とオートリキシャに乗って街中見物をしたが、ホテルまで10分程度のところで降り、歩いて帰ることにした。その途中に人込みの中で、スクータに乗った若者が、話かけながら我々のほうへ来た。多分、店を紹介するとのことであろうが、話が分からなかったのと、スクーターに乗ったままで横に並ばれても危険なので「向こうへ行け」と日本語で言った。商売にならないと思ったのか、その後、彼はヒンズー語でどなりながら我々の周りをスレスレに、明らかな嫌がらせ運転で付いてきた。
周りの人は、ほとんどが黙って見ていたが、4〜5人はスクータの若者へ話掛けた。注意した者が半分”年取った人は真剣な顔で「止めなさい!」”、はやす者半分”若者はニヤニヤしながら「お前何やってんだ!」”だった。
速度がほとんど歩く速さだったので、それほど危ないとは思わなかった。しかし命の値段が安い国は、このようなのに絡まれると何が起きるか分からない。トラブルは避けるべきなので、スクーターの入って来れない車止めのある路地裏の商店街に入った。絡まれたのは50m程か。旅行中に唯一安全面でいやな思いをしたときだ。なお、そこの商店街で買ったナンに野菜や肉が入ったカレーソースを挟み、歩きながら食べたもの(軽食類:名前不明トルコ料理のケバブに似ている)は美味しかった。

カーストが低く、また識字が出来ない庶民でも、海外からの旅行者が「気持ち良く」旅ができるようになれば、観光客が増え国が豊かになるということは分かっているのだろうが、自分の事として考えられないのだ。カーストで個人の受持つ仕事の範囲が細かく規定されているためだろう。「目先のお金を得ることで精一杯になってしまう姿」を見て、貧しさ故のやるせなさを感じた。
我々日本のサラリーマンも、仕事の範囲が細かく規定されているので、世間から”目先のことで精一杯の「安サラリーマン」や「貧乏リーマン」なんて言われているのかな”と、ふと考へた‥。

フマユーン廟
500年前の人であるフマユーンは、ムガル帝国の2代目で、当時ヒンズー教とイスラム教の争いが大きくなっていた時に、融和政策を行い争いを収めた。日本で1400年前、神道系と仏教系の争いを収めるため「自分のほうの宗教だけが正しいと片意地張りたいのは分かるけど、人のことも少しは認めて、神と仏の両方を拝めばいいじゃない。」と言った聖徳太子的な人物だ。

ちなみに、今の銀行の低金利で、年利0.05%だと聖徳太子の没年(622年)に預けた1,000円は、今年でも2,000円にならない。1387年後の2009年でようやく税込みで2倍(手取りで1800円)だ。普通預金の0.01%だと2倍になるのは6932年後だ。紀元0年に縄文人のご先祖様に1000円預けて戴いても今は1221円だ。税金に2割持っていかれるので手取りは1177円だ。お客よりも自分が可愛いのは判るけど、銀行は自分の行動に遠慮しないなアと思ったりする。日本でも一般の民は、家族を養う他に、色々なところから搾取されるために働いているのだろうと薄々気づいてはいるけれど‥。

建物は使用する石を変えて色を付ける。赤い色は赤砂岩。入場料250ルピー(5米ドル)

フマユーンは自尊心の強い人であった「私は人を非難することが楽しいが、人が私を非難するのは不愉快だ。ましてや私が私を非難するのは不愉快極まわりないことでなかなか出来ない」と言ったという。


2003.06、インド鉄道時刻表(英語版)を日本で買った。出かける前に探したのに無く、インドでも買えなかったので、今更という気もしたが、インドで乗った列車と駅がようやく特定出来た。特にヴェラナシ(Varanasi)駅と思っていたのがヴェラナシ近郊のMughalsarai駅だったのは思いも掛けないことで、びっくりした。ガイドさんに説明を受けたのだろうが聞き流してしまったのだろう。駅に着いたときに、駅名の前で写真を撮ろうとしたが、こちらはVaranasiという単語を探していた。無いので「英語で書いてある表示が少ないのだろう」と思って終わってしまった。
ツアー旅行だったが時刻表はやはり持って行きたかったと思う。
http://www.mri-trading.com/ (ショップ・エムリ:送料、税込みで2400円)で購入。トーマスクック時刻表が2,100円(税別)なので、まあ適正価格か。満足している一冊だ。また、ページを開いたとき、くしゃみが出そうになるのは、40年前までは新聞でいつも嗅いでいたインク油の匂いのせいだ。

ニューデリー駅の駐車場

ニューデリー駅の外


2002.12.1夜のニューデリー駅

駅構内



構内は暗い。

インド鉄道2等車のトイレ



トイレの注意書き

手の位置にあるレバーを押すと右の白いノルズから水洗の水が出てステンレス便器の中をきれいにする。底までの深さが数センチなので、水を流すとき溢れてしまうことを心配してしまうが、水は穏やかに、渦を巻くように流れるので、問題はない。まだ文化的抵抗がありレバーをティッシュで包んで押した。だが、ティッシュにが汚れは無い。匂いも無かった。また構造上、男でも大、小とも座って用を足すのだろう。白いノルズ側にステンレス便器は高さ1メートル以上伸びている。白いノルズにが小水が掛かる所に特有の薄茶色の汚れはなかった。私はステンレス便器が高いのは立って用を足すためと考えて、立って用を足した。左のコップはおしりと手洗い用。インド人は紙を使わない。多分、おしりが濡れたままパンツを穿くシステムなのであろう。便器はコップの方が前である。コップの上には蛇口がある。指で蛇口の水が出る辺りの出っ張りを押すとしばらく水が出る。指を洗えるしコップに水もたまる。コップの中には長らく洗っていないような汚れが少しあったが、便器はきれいである。インド人はどこでも皆、きれいに便器を使うようだ。汚したまま逃げる人が少ないのだろう、旅行中に汚いトイレは見なかった。もちろん、ツアー旅行者なので酷いところへは連れて行ってもらえないということもあるのだろうが、疑ってはきりがない。なお、日本人は紙を使う。ガイド誌には使用後の紙は流してはいけないと書いてあったりするが、この車両のトイレは垂れ流しなので、紙を捨てても良いと思う。コップが前になるようしゃがむ。便器周辺にこぼれている水はおしりを水で洗うためである。
また、男性の半分、女性はほとんどがサンダル履きであることも、きれいなトイレと関係するかもしれない。

駅のトイレは中を見なかったのでどんな状態か不明。また、日本からのツアーで利用するホテルは洋式トイレであり、水洗である。しかし
ウォシュレットはないのでちとつらい。
我々が利用したような中級ホテルだとトイレ内のトイペは硬く、少量である。トイぺを多く使う人、お腹がすぐゆるくなる人、お尻の皮膚の弱い人は柔らかいトイペを持っていくことをお勧めする。
私のウォシュレットに慣れているお尻の皮膚には、トイぺの硬さがちとつらかった。

ちょっと! イタリア(ベニス)での思い出
インドの列車内トイレを見て「日本と違うので、大には使えななかったよ」との仲間の言葉を聞いて30年前にイタリアのベニス駅のトイレに行った時のことを思い出した。そのトイレは入口を入って正面は手前が手洗いエリア、左側にトイレがある。トイレを向くと左が小の区域であり、コンクリの壁に向かって用事をたす。右が大の区域である。そこは見聞を妨げる扉はなく、しゃがみこむ姿が丸見えである。長さ3〜4メートルの凹型のコンクリがあり、足場となる。、凹の間に水が流れている。適当な隙間を見つけ凹の上に足を乗せしゃがみこむ。当然、用を足している人は前の人のお尻を観察しながら用を足す。下痢の人が前だったら大変だろうと心配もする。私は誰も居ない時に一番奥(流れの川下)で用を足そうとした。座る向きが分からなかったので悩んだが、奥側に向くことにした。座り込んだらすぐ、列車が到着して私の後に3〜4人しゃがんで用を足し始めた。順番待ちも出来た。用を足すのが速く、座るや否や出し、たちまち立つ人もいた。そのとき、おかしなことに気が付いた。川上から流れてくるのはxxだけだった。中には熊のものと思われる、立派なものもあった。昔のことなので、記憶は定かではないが、多分トイレの中に熊はいなかった。そして紙は流れて来なかった。私はそれに気がついて、用事を終え立ち上がった後、私の後に立ち上がった3人の行動を、洗面所で監視し、確認した。2人は用が済んだ後、蛇口で手とハンカチを丁寧に洗った。(何故ハンカチと手を洗っていたのか疑問を持ったが現在も不明のままだ。)


一人はズボンを穿いて出て行った。6〜7人のデータなのでイタリアでは国民的にお尻を拭かないと断定できないが30年前の事実である。ちなみに、それ以来人のXXをする姿など見たことは無いし、見られたことも無い。そして、お尻を見られるだけだった最前列にしゃがんだことを後悔している。駅からしゃがんでいる所が見えてしまうが、最後列にすればよかった。
しかし、座る向きを間違えていなかったらしいのは良かった。向き合ってのXXは落ち着けないに違いない。

(*):口には出せないのだが、以下の考えもある。
日本:鼻をかむ⇒紙、食事中に口を拭く⇒紙、お尻を拭く⇒紙
イタリア:鼻をかむ⇒布、食事中に口を拭く⇒布、お尻を拭く⇒?
当時もハンカチを丁寧に洗う姿を見て「?」と思ったのだ。


インドのシステムは我々になじみが薄いが結構、文化的なのかもしれない。
なお、日本では昭和20年代は新聞紙だった。また、昔話では、よく葉っぱとか縄が出てくる。日本人は昔から拭いていたのであろうと思い何故か安心する。


2等列車内の乗客
親切だった。

2、3等の夜行寝台列車の車中



デリーからバラナシへ向かう列車にクラス旅行中のインド一流有名お嬢様学校の女子高生たちがいた。
彼らは仲間内でもきれいな英語で話す。(多分英語以外は使えない学校である)列車の中は周りがうるさかったが、私は寝つきが良いので、横になったらたちまち寝た。夜中に何度か起きたが、インド人はいびきをかいていなかった。お前のいびきがうるさかったと翌朝、指摘を受けた。
列車内には到着駅の案内がない。停車駅の駅名も英語表記が分かりにくい。私の場合は、他の車両にガイドさんが乗っていたし、ガイドさんが来る前に、周りの人が降りる準備をしろと教えてくれた。また、心配ならば車掌さんにチップを渡せば、降りる駅を教えてくれるが、延着があると気を使う。


2等車のコンポーネントの先生大きい写真1大きい写真2へ。当然先生達の会話は英語である。現地の人と、話せるので列車の旅は面白い。2等車以上だと英語を喋れる人が多いし、治安も安心だ。

超広軌道の線路


前述の列車トイレ内注意書きで駅でのトイレ使用は禁止されているが、そんなこと言われても難しいのだ。列車トイレは垂れ流しで、アップには耐えられないので縮小。しかし、お薦めしないが大きい写真1おおきい写真2へ。
インド鉄道の車内はうれしい広さだ。インド鉄道は1676ミリの超広軌が標準である。JRの1067ミリ(新幹線1435ミリ)の1.5倍もある。JRや民鉄は15両編成が限界などと言って列車のラッシュアワーを放ったらかしにしているが、都心線と近郊線だけでも超広軌に出来ないものかと考えてしまう。毎日、不快な思いをしている我々には、インド鉄道の1676ミリが羨ましい。


ムガールサライ駅(Mughalsarai)ヴェラナシ(Varanasi)近郊 12/3 8:00

浮浪児

駅には浮浪児の物乞いが多い。我々を見ると、食べていないとの身振りをする。しかしほんとうに困っている、身障者や飢えている子供は構内まで来れないようだ。街中の浮浪児のほうが痩せていたり、汚い子がいる。最初は、せっかく円高のニッポンから貧しいインドへ旅行に来たのだから、お大尽になったつもりで、どーんと、と言っても10ルピー(27円)程度を、多くの浮浪児に与えても良いと思っていた。しかしお金を渡すとそれを見ていた大勢がワッと集まり「俺にもよこせ」と迫ってくる。もらった子も「冗談じゃないよ。これっぽっちじゃ足りないよ。俺は何日も食べてないんだ(おい、うそを吐くなよ)」と主張しながら付いてくる。例えが悪いが砂鉄を集める磁石みたいなことになる。「人の良い人、気の弱い人に対し、チャンスとばかり群がる」ように感じてしまう。与えるとかえってストレスが大きくなるので、だんだんと無視することが多くなった。
お金をもらった人は「おありがとうございます」と頭を下げながら恩人を見送り、お金をあげた人は、立ち去りながらちょっと誇らしげな優越感を味わうなんていう文化はインドにはない。
宮脇さんのインド鉄道紀行本にあるように、浮浪児でもゴクミのようなパッチリとした大きな目と彫りの深い顔をしている。
もちろん、可愛くない子もいる。浮浪児でないが目の大きい子

痩せた小学生低学年ぐらいのゴクミや沢口靖子が、2歳ぐらいの妹を抱っこし、大きな目に目やにをいっぱい溜めて「私たちは、食べていない」とかすれた、幼い声で言うのを聞いて、お金をあげない自分を鬼だと思ってしまう。
物乞いには、地元の人も結構お金を渡している。信号で前に止まっていたベンツから両足のない物乞いに紺色のルピー札(多分、100ルピー以上)が渡るのを見た。やはり、持っている人はバンバン施しをするのだ。
日本人はすぐ逃げられる車に乗る直前などに、ばら撒けばストレスを余り感じないで渡せるのかもしれない。

左の写真はムガーイサライ駅で、前日の朝に10ルピーを渡した物乞いの少年。
次の日に駅に行ったら覚えており、早速まとわりついたので1枚撮った。
日本の子供は大人しく逞しさがないといわれるが、インドには元気で猪口才な小僧が大勢いる。
サールナートにいた8歳くらいの男の子は、最初は物乞いだったが、駄目と判断すると鹿がいるところに先回りし何故かパンを持って「鹿の餌だよ」と寄って来た。その後は、針金細工のみやげ物屋に変身し、最後は我々の車の前で「絵葉書売り」になった。そういう子供を見ると楽しくなり、つい財布のひもが緩くなって20ルピーで絵葉書を買ってしまった。労働を厭わない子供たちだが、現在は社会的に這い上がることが難しい。1、2等車の列車に乗ってくるような「良いとこの子」は、日本の子と同じく大人しい。もし変化が始まった後のこの国で、国家のためどちらが、役立つ人になるかは知らない。

現在のカーストでは、物乞いは代々物乞いの仕事をする。物乞いの仕事以外に就いてはいけないのだ。


外国人の無責任な立場からこの国を見ると、身分制度と意識を変えるため、この国は2世代位の間、共産国家にしたほうが良いかもしれない。
私は東横線沿線の横浜市港北区で育った。まだ農家が15%くらいあった小学校時代は、明治維新90年だったが、まだご先祖の出身が「士」か「農」かが、話題になった。農家を含め皆、先祖は武士だと言っていたのを、思い出す。
インド人で仕事を持っている人は、朝早くから夜遅くまで労働している人が多い。また自己主張が強い国民性で、日本人のようにノーテンキな国民性ではない。変化へのエネルギーはたまっている。この国は変化が始まったら速い。10年以内に大政治家が出てきて、変化を求める国造りを始める筈だ。
現代日本は利権や政治家世襲(選挙区が北朝鮮の金体制と同じだ)を大切にしている変化を求めない社会構造だ。あっという間に追い越される。

ムガールサライ駅(Mughalsarai)ベラナシ近郊 12/3 朝8:00

どうです。堂々たる広いホーム。

ムガールサライ駅(Mughalsarai)近郊 12/2 朝9:00


なお、ベラナシ(Varanasi)はバラナシ、べレナス、ベナレス、ヴェラナシ、バナーラス色々な言い方がある。

普通列車。中はラッシュ状態。(ムガールサライ駅)

ムガールサライ駅(Mughalsarai) 12/3 朝8:00
インドには白内障で目が白濁した老人が多い。昭和30年前半に祖父に連れられて旅行した新潟で、同じ印象をもったことを思い出した。しかし、日本では目が白くなるほど進行した白内障の老人は40年程前から少なくなり、30年前には見なくなった。


ごみ袋に顔を入れる野良牛
ごみは道に捨てる習慣があるようだ。生ごみは、浮浪者、野良牛、野良豚、野良犬、野良やぎが食べる。ビニール系のごみが残る。インドは食べ物が豊富な国だ。朝、町を行くと米や野菜などが山盛りで捨ててある。それらが、全部人間が食べられるかどうかは知らない。

なお、「河童の覗いたインド」によると牛、豚、やぎには飼主がいるそうである。あまり痩せている人には近づかないほうが良い。エイズの可能性があるという。
リキシャ通学するベラナシの小学生


この中の一人は泣いた跡がある。拡大写真
インド人の子供でも、顔を見れば性格が分かるものだ。 

小学生は6歳から始まる。義務教育だが行けない子供が多い。高校は18歳まで、大学は4年間で日本と同じ。小学生でも授業は英語という。
2002.12.2 バラナシのガートへのメインロード


排気ガスと喧騒が町を覆う。人や牛、犬も車のクラクションには道を譲る。道路の上は強い物が優先だ。人間の作った道路を、勝手に牛や犬、豚が使っていることに最初は違和感を覚えたが、他の生物が作ったものを使ってはいけないという決まりは自然界にない。我々も、そこいらの動物を食べたり、木陰を使ったり、草を切ったりしている。インド以外だと彼らは、殺されるか食べられてしまうのでこのような光景が無いだけなのだ。車に轢かれたのか、びっこを引いている牛や犬が多い。


インドの商店はこのように皆小さい。お菓子屋さん。
ベラナシのガート(ガートで一番大きいDashaswamedh Ghat)

2002.12.2ヒンズー教の聖地ベラナシのガート(ガートで一番大きいDashaswamedh Ghat)
バラナシではデッドボディの処理を異教徒に見せるのが大きな産業である。町を横切るガンガーの西沿岸に3〜4キロに亘りガートが連なる。その間に火葬場は何箇所もあり、そこは多くの火葬を待つ布に包まれたボディーが置かれ、火葬中の煙が上がる。火葬場は撮影禁止となっている。しかしガート最大の見せ場である。火葬は水際のコンクリの階段に平坦になるよう薪を積み上げ、その上に足が川側になるようボディーを置き火をつける。足やら頭やらの火葬の進行状況が丸見えとなる。丸見えになること事体は悪いことをしているわけではないが、それを特等席のボートに乗り、「足が動いたぞお」などと言いながら見物するのは、相当に悪趣味な行為と思う。
どこかの国のy元幹事長ではないが変熊(ちょっと字が違うかな?)と断定されても仕方ない。日本で、このような事にお金を出し見物している現場を押さえられたら、以後は世間から後ろ指を差されて生きなければならない。近所の目が厳しい地域だったら気の弱い人は夜逃げをしなければならない。ところが、ここでは観光客たちが、白昼に堂々と顔をさらして見ていても何も言われない。「良く見えたよ、サンキュー」などと言いながらチップを渡したりするので、かえって感謝されたりする。なお見方も国民性が出ていた。日本人は比較的静かだが、欧米系は良く見ようと舟の上で立ったりして騒がしい。
火葬を異邦人から見られてしまう家族はどんな気持ちか?見世物にして失礼でないのか?不愉快でないのか?という疑問が湧くが、不愉快ではないとのことである。理由として「河童のインド」に、日本の祭りでふんどし一丁で行う「裸祭り」があるが、それを外人に見られても日本人は不愉快を感じていないのと同じだとの記載がある。なるほどと納得する。
ところで、ボートで見物しながら冥福を祈ろうとの気持ちが起きなかったのは、映画の様にボートが進むに従い、
次々と新しい情景を映してくれたためだろうか。
周りのインド人は近くで火葬の煙が上がっていても、歯を磨き、口をそそぎ、体を洗い、自然に生活している。日本で火葬場の近くに行くと煙突の煙を見たり、臭いを気にしてしまうが、ここでは煙がもうもうと上がっていたが、不思議に臭いの記憶はない。
火葬後の骨はガンガーに捨てる。火葬場の前にはザルを持ち川底をあさる人々がいる。金目のものはまず、焼場の人が取るので、大したものが残ってはいない。少しの可能性に賭け、骨と一緒に捨てられた金目の物を目当てに、冷たい川へ入りたい人はいない。
民が貧しい国であることを実感する。
川岸近くは不純物で水が濁っているが、沖に行くと不純物が見えない緑色になる。透明度は岸で50cm、沖で100cm程度である。川水は上の写真では前から後方向へ流れている筈だが、乾季のため流れが遅くて分からなかった。
大きい写真

洗濯屋
火葬場の数十メートル横では洗濯屋さんが、衣類を石に叩きつけて洗濯をしている。火葬後は完全無菌だと分かっているし、天然痘のような空気伝染病が余り無いためボディーからも問題は起きないだろうと思うが、日本人では精神的に納得が難しい。洗濯物は川の色である茶色にやや染まっているものが多い。

沐浴(Dashaswamedh Ghat)
全身に石鹸を塗って入る人や歯を磨く人もいた。沐浴は体を清潔にするのが主な目的なのだ。朝のガートの路上には歯磨き用の木売りがいる。木は太さ0.5〜1.5cmくらいで、約20cmの長さに切ってある。ニームという木で虫歯予防の成分がある。
写真下 ニームの木(オーランガバードで撮影)


切口を歯で噛むと繊維がほぐれてブラシ状になる。お金持ちは歯ブラシで貧乏人は木で歯を磨く。なお、ニームは大木になり、街中にも生えている。インドでは、路上生活者でも朝に歯を磨く。そして彼らは歯並びが良い。日本人によくある、乱れて生えた歯は見ない。なお、ガンガーの水温は15度程度であった。

2002.12.3バラナシの朝
ガンガーで投網をたぐる漁師。
映画「たそがれ清兵衛」で釣りをしている脇に、土座衛門が流れてくる場面がある。昔の日本でも川の流れるところならば当たり前の風景なのだろう。
しかし、現代の日本人は、この有機物が二酸化炭素やメタンのような無機物に変化した後に、再度有機物に変化した物の摂取ならば不満をとなえようもないが、ここの魚のように、この有機物を胃袋で消化中である可能性があることは許せない。
インドでは魚カレーを食べまいと決めた。
もやっているのは朝もや半分、排気ガス半分。ほぼ対岸(ガート側)から相手岸を見ている。


ガンガーでボートを漕ぐ 12/3
本職から、両手ともオールの先を握るよう教えられる。
なるほど力学的には正しいが、ソーラン節のイメージを持つ日本人はこの形になる。オールは竹竿に水を掻く木の板(日本のオールと正面図は同じ形)を釘で打ち付けて作ってある。構造上、木だけの日本のオールより幾段も軽い。
オールに使われている竹は、節の出っ張りがほとんどない。
(ムンバイの写真最下部参照)








サールナート

サールナート
ブッダが説法を行った場所には2重の円筒の形をした記念碑(DhamekStupa)が立てられている。建物に空洞はないので入れない。


バラナシ博物館の4頭ライオン

(博物館で購入のはがきより拡大写真


朝、ムガールサライから列車でアグラ近郊のタンディアへ移動。夕刻、タンディア着。

アグラ近郊のタンディア駅(Tundia) 列車が40分遅れた12/3 19:30



ツンディア駅(Tundia)
タンディア駅から車で約1時間でアグラに着く。

イスラム教の結婚披露宴
酔っ払ったモンゴロイドの隣で迷惑そうな花嫁さん
イスラム教の結婚披露宴
2002.12.3 23時頃、アグラの国営アシュカホテルで厳粛なるイスラム教の結婚披露宴に突然、モンゴロイドが乱入した。酒に酔った異教徒は花嫁さんと写真を撮ったり、参列者とダンスを踊った。翌朝「彼は女の子に囲まれハーレム状態だった」と見ていた人はいうが、本人は泥酔状態で覚えていない。花嫁さん、花婿さん、そして両家の一族の皆様、結婚披露宴へ突然入らせて頂きましてありがとうございました。
インドの結婚式は日本以上にお金を使う。特に女性の持参金は一族で用立てることがあるなど大変だそうだ。ラマダンの季節だからかもしれないが、披露宴は21時ごろから始まる。花嫁衣装は正にアラジンの王女さまの世界で真珠とダイヤがギラギラしてきれいだった(もちろん花嫁もきれいだった)。
宗教は違っても花嫁さんは目立たせないといけないという文化は共通だ。花嫁衣裳が派手になっている日本で、この花嫁衣裳は流行るかもしれない。花嫁さんが3回衣装を変えるならば
@色とりどりだったり白かったりするが、清楚な神仏系の和服衣装、
Aひらひらした飾りをいっぱい付けて、幅も長さもたっぷり大きいキリスト教系の白いドレス、
B多くの光物がきらきらと全身を覆うイスラム教系衣装、
で決まりであろう。




アグラのタージマハール

2002.12.4アグラのタージマハール
外国人は入場料15米ドル(750ルピー)のインドの至宝。巨大な建築物である。前後左右同じ形をしている。以前はエメラルドとルビーが壁にべたべた貼ってあったというが、とっくに剥がされイギリスに持っていかれた。普通のインド人ガイドは入れない。タジマハル専門のガイドがいる。建物には裸足(靴下)で上がる。1階入口に不機嫌そうな顔をした下足番のおじいさんがいるので、靴を渡す。建物の中に入れるが、2階部分のみ。建物の中は撮影禁止。2階の建物入口を入るとすぐ、板と金網のふたで隠された1階への階段がある。ふたをめくると奥に2階のものより小さく粗末な王妃の本物の墓が見える。2階にあるのは立派だが偽物の王妃の墓だ。建物に入るとすぐガイドが勝手にしゃべり始める。要らないのなら、すぐNOと言わないとお金を要求される。ガイド料は20ルピー以上という。
建物を出て1階に下り、靴を返してもらう時、おじいさんにチップを渡す。このときはインド滞在最終日だったが、ルピーが沢山余っていたので、20ルピー(54円)を奮発した。下足番のおじいさんは「ジャパン?フム、フム」と言いながら機嫌がすごく良くなった。インド系や西洋系が何人か先に待っていたが、我々の靴を先に出した。こちらは、「数十分の下足番に20ルピーも支払ったので、後から来る日本人旅行者に迷惑を掛けてしまうかもしれないなあ」などと反省もしたが「円高対策が出来ずにいる日本政府やお役人の責任である」と勝手に結論づけた。今日は理屈や反省などは、さて置いてお金をばら撒いて行かないとルピーが残ってしまう。
お金の価値がこんなに高い国とは思っていない時に空港で換金(11/30の夜に1万5000円)しているのである。9時間後には帰りの飛行機に乗る予定で、また日本へのお土産はほとんど買ってしまってあるが、残金は1700ルピー(5000円近く)ある。
もやっているのは排気ガスだ。のどの弱い人はインド旅行に向かない。タージ・マハル入口前の、みやげ物屋、飲食店、リキシャの客引きは、ちとしつこい。お金はたくさん余りそうだが、しつこい人、あつかましい人には使いたくない。
バス乗り場近くのうるさく無い店に入った。5歳くらいの女の子が私の担当らしく注文を取りにきた。チャイは5ルピー(13〜14円)だった。おいしかった。帰り際に細かいお金が無かったので20ルピー札で支払った。おつりを持ってきたので要らないよと言う意味で、「No Thanks」と言いながら、横に手を振ったら、すごくうれしそうな表情になった。「そんなに喜んでくれるなら100ルピー札で支払ったのに」とみみっちく思った。

女兵士

女兵士(拡大写真)
駐車場からタジマハルまで約1Kmは自動車の乗り入れ禁止となっている。歩くか馬車、リキシャ、電動バスでタージ・マハルに向かう。タジマハール見物からの帰りに、駐車場までの電動バスに乗り合わせた女兵士。旅行中に、カシミール地方でテロがあり、治安活動が活発な時期と重なった。そういえば、タジマハルの入口には空港で使う金属探知機があり、兵隊が入場者をチェックした。インドでは女兵士を多く見た。日本などより女性の比率が相当高い。

アグラ城
今回の旅行最後の観光地。大きいので歩き回るのに疲れてしまう。特にこの日は風邪を引いてしまったので辛かった。遠くにタジマハルが見えた。
ここから、デリー空港へ車で直行した。

アグラ城にいた中学生たち(拡大写真)

2006年旅行時の中学生達の写真があるページ



ガイドのカーンさん。道中我々のわがままを聞いてくれた。頼りになるガイドさんであった。個人的なガイドもやってくれるので、インド個人旅行を計画している方は連絡してみると良い。連絡はローマ字か(RENRAKU HA RO-MAJI KA)英語でカーンさんの連絡先:mac786#indiatimes.com(change # -> @)ガイド費用は分からないので直接聞いてください。私の感想は「お金にがめつくないので、安心できた。土産物屋へはこちらから言わないと連れて行ってもらえない。あのインドでチップも請求しなかった、まじめで清廉な青年だ。」
彼は、2005年の愛知万博でインド館員として来日した。
愛知万博での写真




日本ではインド旅行は、若者が放浪しに行く危ない国というイメージが強い。しかし現地ガイドが付くツアーならば安全面に問題は無い。大体、年間何百万人もの外人観光客が訪れるところが危険な筈ないのである。いままで海外には20ヵ国程度行っているが、インドは観光地として良かったベスト1だ。汚い町、汚い人、身体を切られた物乞いなど、心安らかになれない事も多々あるが、見所がいっぱいある。
日本の世界史教育は文明開化や戦後のアメリカによる指導の影響で欧米中心になっているが、どっこい世の中には欧米以外に世界史の中心が複数あったのだ。
エッフェル塔やオリンポスで感激した自分は、世間が狭かったと思う。
ツアー中高年にも楽しい国である。ちなみに我々のツアーの参加者は中高年3人組(我々が50代2人参加、一人参加の40代前半男性)だった。ガイドさんは一人参加のおじさん、おばさんが多い(もちろん若者も)と言っていた。私のように、「インド放浪」や「インドで考えたこと」を読んで、若いころからインドに憧れたが、インド訪問の機会がなかった人は、まずツアーの一人参加で行ってみると良い。

感想
個人旅行者は分からないが、ツアーのインド旅行者は、ここで安心感というおか、優越感に浸れるのだと思う。アジア系と違い、自己主張の強いインド人たちが、多少のお金を得ようと騒ぐのも、その感覚を助長する。しかも、旅行者はツアーというガイドさんに守られた安全な場所にいて、半分無責任にそれを見物できるのだ。日本では普通のサラリーマンでも数百円を大金のように感じてしまう人々の中で、旅行中は富豪気分を味わえるのだ。


病気について

我々ツアー参加の3人は下痢をしなかった。
ツアーが中高年には強行軍であり、ホテルに着くとただ寝ていたかったことと、ツアーで提供するもの以外は食べる機会がなかったこともある。
また、駅では早足で移動し、観光時間が余るとガイドさんは「チャイしよう」とケーキやらフルーツやらの安全なものを、時々食べさせていた(費用はもちろん参加者(
ガイドさん含む)で割勘)。帰ってからの推測だが、我々が「買い食い」しないようにしていたとも思える。なお、チャイは沸騰させるので安全という。チャイの作り方
自発的な買い食いは、「前記の早起きした朝にナンにカレー付けて、歩きながら食べた軽食カレー」と「列車内の弁当」「女子学生にもらった噛み応えがコンペイトウ状のお菓子」「タージマハール前で飲んだチャイ」だけだ。
私は海外での買い食いが大好きだが、物足りなさは感じなかった。
水はペットボトルのミネラルウオータとレストランで出される水だけを飲んだ。歯磨きは洗面台の蛇口からの水だ。一人参加の人はミネラルウオータしか飲まなかったし、歯磨きもミネラルウォータと言っていた。
しかし、レストランで出される食器や使っている包丁は蛇口の水で洗っている筈なのであまり神経質になるのはどうかと思う。

最終日に私だけ風邪を引いた。
私はエアコンに弱い。前日のホテルのエアコンが寒すぎたのだが、深夜まで結婚式に出て騒いだのと泥酔していたので、部屋に帰るやいなや、エアコンを切らずに寝てしまったのだ。


今年(2005年)1月、インドの投資信託が売り出されているのを知って、少しだが早速買った。この旅行でインドが持つ活力を見たからだ。日本の投信会社は一般的に外国勢に比べ運用成績が悪いというイメージがある。6、7年くらい前に、これからは中国だと思い、日本の投信会社が設立した中国(主に香港)の投信(太陽チャイナオープン)を購入した。しかし、香港市場は伸びているのに私の購入した投信は下ったままだった。3年前に泣く泣く購入の半額近くで損切りした。今でも私の購入時の3〜4割価格が下がったままだ。香港市場はとっくに回復しているので、運用者はプロとして失格である。この系列の投信は2度と買うものかと思うし、騙されたとも思う。投信会社には、うまくいかない投信は早く解散する厳しさが欲しいものだし、良い投信会社はそうしているのだろう。今回のは、保護や規制のない世界で評価を得ている、香港と英国のHSBCだ。ここは日本で販売している投信5個の内4個で、当初価格(10,000円)以上であり、マイナスの1個も一万円に近い価格(9800円以上)だ。信用出来そうなので乗ってみた。2週間後の1月末に見たら3%の手数料込みでも5%アップ(実質8%?)だった。今月は特別なのだろうがうれしいものだ。(3%の手数料は稼いだので、これからの運用は3%アップの基準(手数料込みで実質0%)を下がったら即売ろうと思う)また、そのときまで生きていないかもしれないが20年後には10倍以上になると欲張っている。
ただ、国内の投資信託で5000円なんていうのも少ないが、20000円なんていうのがほとんど無いのはどうして?この辺を見ると
国内の投信は胡散臭い。国内投信会社は本当に運営能力がないだけならば、ユーザとしてはあきらめが付くが?
日経新聞などは、国内で販売している投資信託の成績しか出さない。現在は海外の物も買えるので、世界中の投資信託の投資成績を記事にして欲しい。広告料の問題や認可等で、新聞社が国内企業のみを大事にしたい気持ちや、政府や行政に逆らえない気持ちは理解できるが、マスコミの姿勢としては間違っている

国内のマスコミは国内の業界とWINWINの関係で記事にするのが多い。例えば’車の購入時に参考にするような雑誌は、車の販売・製造業界から情報をもらわなわければ雑誌が出来ないのは想像がつく。消費者が一番知りたい、車の値引き情報なんていうのは、当然だが販売会社から教えてもらわなければならない。ということは、その情報は販売会社に都合の良い情報でもあるのだよ、トーマス君。雑誌の値引率情報は8〜9割以上の人が得られる率なのだよ、トーマス君。
読者へ正しい判断が出来るような記事を出すのが、結局は新聞社のためになるし、世の為、人の為になる。投資信託手数料はアメリカや香港のほうが投信手数料が安いというし。なお、今(2005.12)はUFJ、ドイツ銀行、野村、など、多くのインドへの投資信託が出ている。しかしインドの株式指標(BSE SENSITIVE)はドシドシと上がっているのに、指標のずっと下の成績しか残せない投信がほとんどだ。こいうのは解散したら良い。プロとしての能力もないのに、いい加減な目論見(株式指標と同等の成績を狙うと書いてある筈だ)でお金を集めるのは、詐欺に近い。なお、その中でHSBCの投信がダントツの一番の成績だったが、この3ヶ月は17211051:JP  JFインド株ファンド が良いようだ。
HSBCのは私が買ったときの株式指標(BSE SENSITIVE)は6200ルピーで投信は11150円だった。今は9000(+45%)の16060(+44%)だ。多分これは同等だろう。(実質は3%の手数料を取られているので、44-3=+41%である) あ〜あ、もっとお金があったなら‥。貧乏人は小金が増えて喜ぶくらいなのが関の山なのが残念だ。

HSBCは現存する日本で一番古い銀行だ。薩長同盟の年の慶応2年(1866)に日本支店を作った。以来、戦争中を除き開店してきたという。日本で国立銀行が出来たのが明治5年(1872)。日本銀行は1882年設立だ。

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インドで考えたこと

後記



2度目のニューデリー(2006.02)

インドで撮ったphotoギャラリー2

インド鉄道


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2003.02.02初載

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