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インド旅行で撮った写真
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エアーインディア
成田を飛び上がったら、羽根からコードが出て来てバタバタとしていた。飛行に必要なコードなのではと心配した。飛行機も古く、さすがエアーインディアだ。


飛行機は古かったが機内食はJALやANAのビジネスよりおいしい。生野菜が入っており栄養面でもうれしい。低糖ヨーグルトもあり健康的だ。両方とも美味しかったが、特に下のが良い。2002.11.30 



食器に掛かっているラップが手作りの機食を証明している。「業者に出すと価格が高くなるので頑張っている」と思われる。日本で機食は利権の塊だろう。衛生がなんだらと、お役所サイドから嫌がらせを受けていないのだろうか?多分、外国から持ち込むなどで、日本のお役所の治外法権なのだろうと推測するが、エアーインディアさん、これからも頑張ってね。

鈴木宗男が、利権サイドを恫喝して、千歳空港での開店権を手に入れた話を読んだことがある。暴力団同士の抗争みたいなもので我々には関係ないと思っていたが、利権業者しか入れない公共設備(空港)は社会的に不利益だ。彼はこのような行動で保釈金が払えたと自分の先見性を自賛しているはずだ。利権を使い国民から巻き上げたお金で彼は青山に家をも買った。告発され、収監され、保釈されテレビで涙を流していたが、自分のための涙だ。「泣けばね、俺でも顔がかわいく見える筈だ。」なんて思ったのだろうか?泣き顔を見せた彼の打算に、乗せられた国民はいないだろう。
せめて私財分だけでも税金の無駄使いを返し、いままでに得た利権情報を明らかにしなくては、許す人はいない。このまま、「黙って墓場へ」なんて考えてるかもしれないが、地獄で閻魔さまに「血税を自分の物にするのが好きみたいだから、ずーと血の海地獄で溺れていなさい」なんて言われてから後悔しても遅いんですよ。


デリー空港の両替おやじ
店頭表示してあった交換率は良かった。が私の前の30歳位の女性は、10000円交換したが 「20ルピー少ない」と文句を言った。彼は、紙幣を数えないで20ルピーを放り投げた。私のは合っていた。
彼は、前述の「鈴木某」より立派な顔だ。ぼんやりした日本人旅行者からは、ちょとくらいボッてもいいと思うけど、20ルピー(54円)までにしてね。
乗ったリキシャのお兄さん。本編に乗車記録あり。



クトゥブ・ミーナール
上部にバルコニーが見える。全景
インド人のデリー観光では、ここが一番の人気だ。東京の都庁舎、横浜の中華街、大阪の大阪城にあたる。

クタブ・ミナール見学の幼稚園児とお母さん達


東洋人を怪しげに見ている園児(左端)をパチリ。モンゴロイドを見るのは初めてかい?


クゥタブミナール内にあるドラヴァルマンの鉄柱が右端に見える。拡大写真

フマユーン廟

このころは、インドではデジカメが珍しいかった。


インド門

ベラナシ(Varanasi}の小学生。インドの学校には必ず制服があるようだ。

インドの子供

女子高の先生方
おはよう!

ガートの中心 ダッシャーシュワメド ガート(Dashaswamedh Ghat)への階段上から(べラナシ)

ダッシャースワメドガート(Dashaswamedh Ghat)への階段下から(Varanasi)
舟上から上の写真と同じ場所(Dashaswamedh Ghat)


ガンガー((Dashaswamedh Ghat)





上の写真の近接写真。近親者を亡くした時、男は一房を残して剃髪する。







ガートの階段


ガートでお祈り


バラナシの町を歩くY。
ムガールサライ(Mughalsarai)駅前通り朝7:30


ムガールサライ駅前広場
広軌の鉄道線路(ベラナシ近郊のムガールサライ(Mughalsarai)駅)


インドに行きたくないなんて言わないで!


機関車(Mughalsarai駅)



ムガールサライ駅



インド鉄道で移動

お菓子屋




花屋(デリー)



少し大きい中高生はV字型の襟のある制服となる。(ベラナシ)


昼間から子供が親の仕事を手伝う。(ベラナシ近郊のサルナートの記念塔近く)
この子(下の写真)は学校に行けない子だ。この近くで7歳位の物乞いの女の子がいたので、20ルピー(54円)渡したら「やったー」と嬉しそうな顔をした。しかし、いつものようにすぐ周りに4〜5人の子供達が走ってきて取り囲み、「俺にもよこせ!」、「私にも頂戴!」と迫られた。しかし、彼らを無視した。彼女には、ちょっと脇道からサルナートの記念塔見物ルートに入った、我々を「待ち構える良いポジションとタイミング」の幸運があったのだ。

日本で動物園に行く時など、カビが生えそうになったパンとか、何週間前のか分からなくなったオレンジなどを持って行き、猿やキリンに与え「喜ぶさま」とか「早く取ろうと懸命になる姿」を見るのが好きな私は、今回も全員にやりたかったが、大勢に迫られて、もう一人にやったら大勢にやらねばねらなく大変なことになる
(*1)と逃げ腰びなったり、女の子の「幸運をつかんだ時に見せるうれしそうな顔」で、大枚をはたいた気になってしまい、結局、吝嗇家の自分が表に出てしまってあげなかったのだった。
(*1)我々団塊の世代は、民主主義が根付いた直後に小学校に入ったためか、当時の文部省か日教組が「公平性を大事するような教育」をしたのだろう、公平という言葉にこだわりを持つ。我々の世代の日本人に傑出した人物がいないのもそのためだという人がいる。(政治家は碌なのがおらず全滅、経済界ではソフトバンクの孫さんがなんたって特出した1番の出世頭だ。)そういえば、我々の世代の小中学校時代は「そんなの公平(平等)じゃないじゃん」という言葉で自己主張する言葉は下ろさざるをえなかった。
「公平大事」は、今考えると”アメリカの占領政策”だった臭いが、我々の心に今も根付いている、恐るべき教育政策だった。残念ながら公平さの教育を受けてしまっている日本の政治家や役人には、このような狩猟民族が家畜に対する発想に近い「こいつらなんて俺達の言うがままさ」という一段高いところから指導するという考えが出にくいはずなので、こういう「心を誘導する政策」は考えられない。利益誘導政治という裏も表も薄っぺらなことがせいぜいとなる。


サールナートの記念塔見物の帰りに物乞いの女の子は、右のお母さんの近くで、私にまとわりつく子供達を見ながらニコニコと得意気な表情で遊んでいた。この子の妹だったらしい。女の子の物乞いは、家計を助けるアルバイトだった。そう気が付いても「今日は良いものを食べられるといいね!」なんて思う。54円で「大枚の施し」をした気分になってしまう、みみっちさが情けないと自省した。

物乞いと表現しているが、この子らは乞食とは違う。私が小学校時代(昭和30年代前半)に住んでいた横浜では、近所に米軍(進駐軍)の基地があり、そこに住む米兵が、時々車からチョコレートやガム(*2)をばら撒いていた。当然、ばら撒きが始まれば我々ガキどもは群がった。この子たちも、そんな感じなのだろう。
当時、我々は積極的に物乞い行為をしなかったが、インドでは自己主張が美徳とされる文化なので、旅行者を取り囲み要求するのだろう。
(*2)今考えると、米兵たちにばら撒かれたチョコレートやマシュマロ、ガムは1枚でなく小さく切ってあった。板ガムならば1/3くらいに切りそれをばら撒いていた。(マシュマロなどは紙に包んであった。)当時世界一豊かな国の兵隊にしては、個人的な行為だが、みみっちかった。今、日本は毎年、数千億円を米軍に渡しているが、もっとみみっちく渡そうよ!と思うのは私だけか?
だいたい「思いやり予算」なんていうのは、利権臭がぷんぷんで偽善的な名前だ。名前を付けた人達は、政治家かエリート官僚と言われる人たちであろう。そういう人は自己愛が強いものなので、自分が作った「建前だけの美しい言葉のうそ」に満足してしまい、名前が「建前だけで偽善臭がぷんぷんしていること」に気づかないものだ。赤頭巾をかぶったおおかみが、かわいい頭巾に満足して尻尾が出ているかどうかをチェックしないのと同じだ。10数年前まで毎年、何千億匹もの蝿を都心に送りつづけた地域を「夢の島」と名づけたり、病気でも入居者が放って置かれるため、生存期間が異常に短い介護老人施設が「おもてなしの心を大切にします。笑顔がいっぱい福寿園」なんていうことになる。最近では、会社でも人材を人財なんていう字を書くのが現れた。会社のお粗末さは押して知るべしだ。金持ちほど金があるそぶりを見せないものだし、うそつき程、自分が正直ものであることを強調し、うその罪悪を語るものだ。これは前述の「差別大好きが現実の国民性のアメリカ人は、建前で”公平が大事だよ”をいつも口に出しているので、それを日本へ押し付けてしまった政策」に通じる。日本人は敗戦の絶望から「羊の作る村社会」状態だったので、公平大事をまじめに取り入れてしまったのだ。しかし、もちろんだが、このアメリカの政策は悪い政策ではないと思う‥。こう思ってしまうのも占領政策で刷込まれただろうが。日米安保は当分現状維持が望ましそうだ。北を併合した韓国が核保有国になるので、日本の隣国(韓国、ロシア、中国(台湾)、そして太平洋を挟んだ米国)の全てが核保有国になる。隣国で一番信用できるのは米国だろう。ロシアはEC方向を向いていしそうだし、韓国は大国気分ではしゃぐだろうし、国民は反日を刷込まれている。中国人も反日を刷込まれているし、一党独裁であり軍事的なアジア覇権主張をいつ表に出すか分からないリスクがあるからだ。

名古屋のテレビ塔から1ドル札をばら撒いた会社員のニュースをテレビで見て、そのみみっちさを嗤った。捨てようが、焼こうが、どんな使い方しようとその人の勝手だが、やはり、日本で撒く時は紙幣最低額の1,000円札以上でないととカッコ悪い。「金は十分ある。こんなお金いらない。」と言いながら撒くのは10,000円札以外に考えられない。
彼もインドで1ドル札をばら撒けば、良かったのに。




タジマハールの写真(アグラ)
35mmフィルム

下は210万画素デジカメ(粗さ中)320kB/枚で撮った中の一枚。上の写真に比べ粗い。
レンズかなあ?


近接写真
模様や文字は色石でつくる。アラビア文字はコーラン。
タジマハルの入場チェック

タージマハールから1kmの駐車場まで運行している電気バスに同乗した女兵士(警官?)。写真を撮らせてくれた。




アグラ城 2002.12.4 中学生の遠足か?どこから来たのか話しかけてきたので、パチリ。どこの国でもこの世代は同じだ。ケラケラ声が聞こえてくる。日本の学生のように化粧していないので安心する。別れ際にお菓子をもらった。

2006年エローラの中学生達


アグラ城




アグラ城の装飾



ガイドのカーンさん。道中我々のわがままを聞いてくれた。頼りになるガイドさんであった。個人的なガイドもやってくれるので、インド個人旅行を計画している方は連絡してみると良い。連絡はローマ字か(RENRAKU HA RO-MAJI KA)英語でカーンさんの連絡先:mac786#indiatimes.com (change # -> @)ガイド費用は分からないので直接聞いてください。私の感想は「お金にがめつくないので、安心できた。土産物屋へはこちらから言わないと連れて行ってもらえない。あのインドでチップも請求しなかった、まじめで清廉な青年だ。」
彼は、2005年の愛知万博でインド館員として来日した。
愛知万博での写真




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