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1973(昭和48年)1月30日(火)から2月20日(火)の3週間
東南ヨーロッパ旅行記

1973年1月25日に、東京の都心を歩いて探し、千駄ヶ谷の旅行店でパリまで往復18万円という航空券を見つけた。見つけたのが木曜日(1/25)、金曜日にお金を支払い、出発は次の火曜日(1/30)のアエロフロート機(イリューシン62型)だ。私にとって初めての飛行機だった。この時代は成田空港はなく、羽田から出発する。途中、深夜のモスクワで給油のため2時間ほど停まる。労働者の国の飛行機は、全席エコノミー席だ。座席は通路をはさんで3列ずつである。椅子の背もたれのほとんどが、網と布で出来ており、クッションのあるところは枠組み部だけだ。疲れないかと心配したが、すわり心地は良かった。席は満席だった。
私の席は3列の真ん中。右の窓席はパリで店を開いているというきれいな中年女性(本物の岸恵子か?)。左の通路席は、出張の中年サラリーマンだった。女性はアエロフロートは初めてだが、速いのと安いので乗ってみたのだと言った。アエロフロート以外の飛行機がヨーロッパまで行くにはアンカレッジ経由か南回りしかないが、アエロフロートはモスクワ経由だったので速いのだ。通路席のサラリーマンは初めてのヨーロッパ出張と言っていた。

3人とも割引料金で航空券を購入したのを確かめた後、女性が「皆で、お幾らで切符を買ったのかを言い合いましょう」と提案した。
まだ飛行機が小さかったし、日本にある国内外の航空会社は利権で仲良く利益を上げられたので、個人向けの運賃割引が無い時代だった。個人はヨーロッパまで往復で78万円の定価販売しかないのだが、しかしソ連系のアエロフロートだけは個人でも割引すると言われていた。しかし、一般には知られていなかったが、一部旅行社では出発間近になると、突然に協定違反の値引き航空券を売り出すとの噂があった。しかし、その情報を得るためには、足で聞き回るしか無い時代だ。彼らは前者、私は後者の切符だ。私は先週まで、色々な航空会社を回り、どこで安いチケットを売っているのかを聞き回っていたのだ。六本木にあるエールフランスの女性が情報を詳しく教えてくれて、エールフランスでは片道10万円で出したことがあったと言っていた。そして協定違反の常習者であるエールフランス、アエロフロートや大韓航空の名前とエールフランス社近くの協定違反チケットを扱う六本木の旅行店を教えてくれた。数百メートル離れた小さなビルの2階にある店に早速行ったら片道15万だった。この場合、帰りはシベリア鉄道経由となり、現地購入でワルシャワから横浜まで約2週間で食費込みで13万位だ。アエロフロートでも、旅行会社を何社か教えてくれてその中の一つが千駄ヶ谷の旅行社だった。
女性は「往復で48万円(復路は1年オープン)だったの。お安いでしょう。」と自慢した。サラリーマンは「片道で30万円」と言った。女性は「片道だから私より高いのはしょうがないわよ」と言って慰めた。サラリーマンは「会社からは正規の料金をもらっているので、結構残った。」といった。最後に私が「18万円」と言った。「エー安い!」と2人から羨ましがられた。彼らは片道料金と思い込み「パリに着いたらお金が無くなる前に、帰りの切符を買ったほうが良い。」と心配していた。往復だとは言えなかった。しかし、こちらは切符購入から出発まで、日曜を除くと3日しかないのだ。

機内食で出たゴルフボールくらいの大きさのりんごが、外国を感じさせた。予想に反し、それはジューシーで甘かった。
まだ暗い早朝にパリ着。リムジンバスで市内へ行く。

フランス パリ: エッフェル塔(写真下)

1度はエレベータで、もう一度は階段で上った。








私の航空券は4週間後の帰国で売り出されていた。日本ではそれが変更できないので、パリで、3週間後の帰国便に変更した。
論文発表会と卒業式に間に合わないからだ。予約した後、3日間見物をした。

パリのアエロフロート事務所前で、日本人に撮ってもらった写真


写っていない。残念だ。

パリのフランスパンが香ばしく、美味いので感激する。朝のパリで開いている店はパン屋だけだ。違う地域のホテルに一日ずつ泊まったが、毎朝、ホテル近くの適当なパン屋でバケットパンを買った。どこでも今の横浜元町ポンパドール(当然この時代には開店していない)のパンの味だ。うまい。皮があまりにパリパリしているので、朝の買物帰りにパクつくと口中に傷が付き血の味がする。パン屋にはバターやジャムは置いていないので、朝食にパンだけを食べる。思えば、日本では「美味しいフランスパンは、アートコーヒーの双子パンだよな」という時代だ。(現在、アートコーヒーはとっくにパンから撤退した。下は双子パン(フランスパンの生地だが皮は柔らかい.。小麦粉が振ってある。 )

そして、フランス人が混雑した地下鉄に裸のパンを脇に抱えて乗りパンが他人の服や肌に触れたり、若いきれいな娘さんが地下鉄の汚い壁にパンをぶつけても、平気なのが気になった。(それ食べるんだろう?)
昼食に、シャンジェリゼの喫茶店のテラスで、コーヒーを飲みながら、塩気のないマーガリンを塗ってある1/2の大きさのパリパリのバケットを、切れ目にはさんであるハムとレタスが大きくはみ出ているので落とさないように気にしながら、パクついたのが美味かった。
行く前に読んだ雑誌に、シャンジェリゼでは、ピカソやジャクリーン、へップバーンが普通に歩いていると書いてあったが会わなかった。
夕食はシャンジェリゼの近くに安いセルフサービスの店を見つけた。2回そこへ通った。
街頭には露天の牡蠣売りがいた。貝柱を切り片方の殻を剥いてレモンを掛けて差し出されたのを、汁で手と体を汚さないよう、顔を前に口をとんがらせ、ズルッと食べる。
下痢したら、今後の予定に影響すると考え、おっかなびっくり食べた為か、ドロ臭い印象を持った。

また地下鉄車内の駅名表示は、進行方向の左右で同じ表示板を使っていた。片方は進行方向の逆向きを表示しているのだ。左右用に2種類の表示板を作ればいいのにと思った。このころ日本経済は正に日の出の勢いを見せていたが、フランス経済は元気を無くしていたので「ちょっとしたことに手を抜いている社会だから、国の活力が無くなるのだ」なんていう評をした。

パリ-アテネ間の鉄道切符を1万2000円で購入。自由席だが特急でも乗り降り自由だった。
東京に上野、新宿、東京という長距離列車の始発駅があるようにパリにも4〜5箇所の始発駅がある。どこから出発するのかを調べるのに結構時間が掛かった。
パリの
駅で料金表に書いてあるアテネ(仏語表記Athinesと英語表記のAthens)のスペルになかなか確信が持てなかった。文庫本で出版されているギリシャ神話はフランス語訳が多いのでアテナイやアシーネという言い方をするのは知っていたが、確実にするため恥ずかしながら販売窓口で「この文字はグリースのアシーネか」と聞いた。
また
時刻表がパリ中央駅にも売っていなかった。結局、旅行中に時刻表は買えず、各駅に掲示してある発車時刻表を見て済ませた。

ポアロで有名な豪華列車オリエント急行と同じルートを走るであろうが、エコノミーなイスタンブール行きに乗った。今回の旅で乗ったヨーロッパの長距離列車はコンポーネント席のみだった。


パリを夕刻に出発し翌朝ベニス着。

このときのベニス駅でのトイレ見聞イタリア男はお尻を拭くの?

イタリア:ベニス(写真下)

上の写真の1973年と2011年比較

イタリアに行ったらスパゲッティを食べねばならない。駅の中にあるレストランで、お金が安く美味しいだろうと思い、イタリアで一番一般的(ポピュラー)なスパゲティを頼んだら、トマトスパゲティとフォークとスプーンが出てきた。トマトスパゲティも初めてだったが、当時の日本ではフォーク以外は出てこなかったのでスプーンの使い方が分からなかった。周りにはスパゲティを食べている人はいなかった。イタリアではスパゲティはスープの部類だという知識を思い出し、飾りかなあなどと思ってフォークだけで食べた。トマトスパゲティは、硬くて、酸っぱくて旨くなかった。なにせ当時は、うどんのように茹で上げたスパゲッティしか食べたことは無かったし、日本でお目にかかれたスパゲッティは、ケチャップ味付けのナポリタン、そしてケチャップに肉を加えたミートソースだけだ。
帰り際にスパゲティを食べている人を発見したら、スプーンにフォークを押し付けて麺を巻いていた。スプーンは便利グッツだったのだ。
日本に帰ってから、帰ってからこの知識を自慢したら「外人は不器用だからそんなことするんだよ」と言われたことがある。当時の私は「そうだよな」と納得した。ベネチアでは、ゴンドラに乗ってみたかったが、お金が心配になり、金額を確かめもせず乗らず。メインロードは全て歩いた。夕食は立ち食いピザ。






べニスを一緒に周った若者




大きい写真
(上写真は、2011年の再訪でサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂前の広場と判明。同じ場所からの写真 2011.07追記)



次の目的地はユーゴスラビアだ。同じ宿の北欧女性から、ユーゴは海側が綺麗だと薦められたが、鉄道がなく
、パリで購入した切符が使えないので、パリで立てた予定どおりベオグラード経由を取った。


ベネチアを朝発つと、夜にユーゴスラビア ベオグラードに着く。
ここだけは丁度よい夜行列車がなく、昼の移動にした。2日前に降りたパリ発の同じ列車に再度乗ったのだ。豊かそうな丘陵と平原地帯が続いた。
留学中のロンドンから陸路で国へ帰るタイ人のキムちゃんとベオグラード入り。前日の朝ロンドンを発っていたキムちゃんはベネチアで乗り込んだ東洋人の私を見て私のコンポーネント席まで来たので合流した。ロンドンで日本人と一緒に皿洗いのアルバイトをしていたという。途中、100円ライターを高級ライターのように扱う、いかにも寸借詐欺師や置き引きですという顔のインド人も一緒に旅行しようと、我々のコンポーネントに入って来た。インド人はベオグラードのYMCAまで付いて来たが、チェックイン後は知らない。キムちゃんは翌朝のブルガリア経由イスタンブール行きで発った。

ベオグラードの知識など何もないので、駅前の大きな書店に入り、ペンギンブックス(英国の旅行ガイド)を購入した。

ドナウ川からベオグラード市内の住宅エリアを望む(下)。なおドナウはドイツで発し、ここを通ってブルガリアで黒海に注ぐ。







ベオグラードはトラムとバスが縦横に走っている。ここはイスラムの匂いを残す町だ。そして国民は皆、親切だった。
トラムやバスに乗っても、笑顔で歓迎してくれる。お客や車掌に「お金はいらない」と言われた時が何度もあった。泊ったYMCA近くにあるパン屋さんの白衣を着た娘さんが、すごく綺麗で、愛嬌がよかったのが記憶に残る。日本のお土産に、鉄道駅から300メートルくらい坂を登った店でペンダントを買った。

ベオグラードは2006年時点で、劣化ウラン弾による放射能被害のリスクはあるが、老後に長期間を過ごしたい都市のひとつだろう。

ユーゴ国のある地域は、蜻蛉(かげろう)のような国が建国され続けてきた地域だ。他国に侵略されて、合併されたり、傀儡国が建国されるが、しばらくすると別の他国に侵略され、国が消えるという歴史を繰り返している。ある事典によると、ローマ時代から現代まで、この地域では37年毎に戦争があった。

ベオグラード市内にある一番の観光地は、古代ローマ時代から城だったカレメグダン公園だ。
3日間の滞在で日本人に会ったのは、運転手付きの車でカレメグダンを見物に来ていた、ローマ駐在の商社マンだけだった。
中にある博物館は、ナチと戦ったパルチザンの記念館となっていた。博物館前にはナチのタイガー戦車や飛行機が展示されていた。
まだ、戦後28年の時代だ。公園入口近くで「日本人か?」と声を掛けてきて、公園内を案内してくれた60才くらいの退役軍人らしき人は、カエサルも、ここを訪問したとの話をした。また、展示してあるタイガー戦車の前で、日本はナチの同盟国だったので聞きたくないかもしれないがと、前置きしながら、ナチの戦車群に飛び込んで戦い、勝利したときのことやゲリラ戦の話をした。しゃべった後にも、聞きたく無かったかもしれないのに聞いてくれてありがとうと気遣いを見せた。不自由なのか、片手だけ黒い手袋をしていたのを、別れる時気づいた。
彼は、ドイツ語のほうが得意だと言いながら英語が流暢に喋れ、知的な方だった。顔もテクノクラート系で立派だった。しかし私が知っている唯一のユーゴ人である、チトー(当時大統領)の話をしたら、嫌いなようで話を避けた。
私も親から聞いたり、中学時代の先輩が残した作文(*1)から、東京空襲の話をした。また父親が戦争中は軍人だったが、国内で植物製油からエンジン燃料を作る部署にいたという話をした。日本には勝てば官軍という言葉があるといったら「それは正しい。もし、ナチが勝っていたら、ナチはユーゴ国民を幸せにしたとして感謝されているのだ。私がナチと戦ったのは、ユーゴを侵略し、ユーゴ人を殺したからなのだ」と語った。彼の話の内容とドイツ語訛のような英語はまだ耳に残る。

カレメグダン公園 写真下





黒い手袋の人に撮ってもらった写真



この世代が死んでしまった頃に、大国が民族独立運動を起こした。
そしてボスニア戦争が始り、国が消えた。

ナチよりも、資金も力も時間もある国々は、自分に都合のよい国作りを始めるため、ユーゴ内の民族へエゴ思想の毒を撒いたのだ。
誰でも、自分をこの世で一番可愛いく思うので、自分の属する団体や民族、宗教、国が可愛いという意識((*2):ナショナリズム)を、外国に上手く使われてしまったのだ。
そして、旧ユーゴで、不幸であった自分達は正しい行動を起こし、独立を勝ち取り、幸せを手に入れたと、思っているものなのだ。今回の戦争で、人々は憎しみ合って殺し合い、国土は荒れ、他国に利益をたっぷり差出し、生活は貧しくなったが、大多数の国民はナショナリズムの満足を与えてくれた独立の闘士に感謝するものなのだ。
ピンクレディのSOSではないが、♪「そうよ、そういうものよ」♪なのだ。

ナショナリズムは為政者の為にはうれしい考えだが、国の概念を変えなければならない(*3)現代では、国民は持たないほうが幸せなのかもしれない。

(*1)私の出たA中学は神宮外苑近くにある。図書館にあった昭和27年に書かれたその作文には、被災時の避難場所に指定されていた神宮外苑に身動きが出来ないほど集まった避難者が、超低空飛行のグラマンからの機銃掃射のために、飛行機が飛行雲を残すように倒れた人々が残されたことが書かれていた。「私はパイロットが楽しそうに笑いながら、人々の上を往復しながら銃弾を浴びせたことを忘れない」とあった。
また、前日に麻布方面が焼かれていたので、指定避難場所の外苑ではなく、焼け野原になっていた麻布に逃げていた人は、助かったという。
ちなみに、A中学は戦前までは海軍大学の校舎だった。間接照明の教室があった。
空襲体験者のHP

(*2)小学校の運動会のカケッコ(徒競走)でも、隣町の子が勝つよりは、町内の子が勝つほうがうれしいものだ。また、誰でも一番楽しい会話は自画自賛を相手に相槌を貰いながら話している時だろう。

(*3)堺屋太一等が言っている、徒歩と帆船が主な交通手段だった時代に決められた国境を、現代も維持しているのは非効率との意見。現代でも、アッサリとユーゴ国がつぶれた歴史から、世の為政者の欲の強さと、彼らの欲望のために踊らされてしまう国民の不見識を感じる。ヘロドトスの「歴史」や、私は作者を知らないが元時代の「18史略」、司馬遷の「史記」の世界と同じである。

ベオグラードのYMCAで文庫本を読んでいたら、地元の小学生くらいの子供達が大勢寄ってきて見せて欲しいという。本を渡したら、本を横にして文字列を見ていた。日本の文は文字を上から下に、そして右行から左へ読むのだと教えたら、付き添いの先生が訳してくれた。文字は象形文字で、文字に意味があり、日本人と中国人は同じ文字なので、言葉は違うが、文字を書けば理解し合えること。そして、学校で3000種の文字を覚えるのだと自慢した。いつの間にか周りの大人たちも、熱心に話しを聞いていた。その後、図を書きながら目とか馬とか魚の起源を教えた。キリスト文化とイスラム文化がごちゃまぜになっている国だが、その彼らの発想を凌駕する異文化の存在に、皆びっくりしていた。所詮、ギリシャ文明とユーフラテス文明、キリスト教とイスラム教はエジプトの文明と宗教を根に持つ似たもの同士だ。

ユーゴ、ギリシャ、トルコのコーヒーは、小さい器に煮出したコーヒー豆と氷砂糖を沈ませたアラブ式だ。すごく甘くすごく濃いが、旨い。
なお、ギリシャだけは「ネスカフェ」という選択枝があった。それは言葉通りインスタントのネッスルコーヒーのことだ。
ギリシャでは、観光客がコーヒーを頼むと「ネスカフェあるいはギリシャのカフェ?」と聞かれる。私はネスカフェとは何だろうと思い、一度だけ頼んだ。テーブル横でネッスル瓶からコーヒー粉を入れていた。値段はネスッルのほうが高い。
北ヨーロッパやアメリカの観光客はネスカフェを選ぶ人々が多かった。

また、炭酸飲料といったらスプライトが好きな人が多い地域だった。

ユーゴ、ギリシャ、トルコでの食事は、街中の定食屋に入ると、たいがい食べ物が入っている鍋の置いてある前まで案内してくれるので、指差して「ディスワン、ディスワン」と言いながら注文する。
香辛料が入っている豆と羊料理の鍋が多く、時々炒めたライスがあった。無味の米やパンの主食で腹を満たす文化の国から行くと、豆などのおかず系だけで腹を満たすのは、なぜか物足りない。

ベオグラードを午後発つと早朝にギリシャ テッサロニキに着く
観光立国のギリシャだが、今はシーズンオフだ。
ユーゴで「ニー」というとNO、ギリシャで「ニー」はYESだ。ユーゴから入国するとちょっと戸惑う。

テッサロニキ市はギリシャ第2の都会だ。
通りすがりの何人もの人から、ここには柔道家の日本人が1人いるぞと教えられた。
21世紀の今では、海外で「中国人?」「韓国人?」なんて結構聞かれるが、このころは東洋人といったら「柔道と空手の日本人」だ。

町のシンボルであるイスラム砦の上からテッサロニキ市内を眺める。(写真下)
ここの、公園の屋台で買ったオレンジを歩きながら食べた。種が多かったが、20円程で甘いオレンジが、4〜5個が来た。


テサロニキからバスで約4時間 ポリギロス半島の西側(写真下)


泊ったホテル近くの海岸。地名は不明。

アレキサンダーの泉を案内した泊まったホテルの子供達。シーズンオフなのと日本人を見たのは初めてだからという理由で、ホテル代(食事含み)は無料だった。


帰国してから写真を送ったが着いたかなあ。





この泉はここの海岸に上陸したアレキサンダー大王が口にしたという伝説がある。水はちょっと塩味だ。




テサロニキからバスで2時間ほどの村の仮装祭り(写真下):結構有名な祭りらしい。行った日が年に一度の祭りだった。写真を撮られると、うれしくなる人々ばかりだ。
東洋人でカメラを持っているので取り囲まれた。テレビニュースの取材に来ていたカメラも私に向け長い間回った。
右端の男性や何人かが、下の写真や、ここには載せていない写真を送って欲しいというので、帰国してから数十枚も送った。
下の写真も配ってくれるというので十数枚を右の男性に送った。着いたかなあ。




下の子も今は30代半ばだ。







夜行でテッサロニキを発つと朝方にアテネに着く。列車は混雑していてたので、通路に座り込んで寝た。

ギリシャ アテネ:アクロポリスの丘(写真下)

アテネはいろいろと歩き回ったが、ここが一番だ。建物の周辺に守衛がいて、建物の中には入れない。アテネには多少観光客がいた。アクロポリス周辺は、知り合ったドイツ人女子大生と歩いた。親たちは一緒に戦ったんと言う点で気があったのだ。ここで自分の為の唯一のお土産となった、3000年の歴史があるという知恵の輪リング(4本の繋がっているリングをひっくり返したりしながら組立てると一本の指輪になる)を購入。
暑いのと重いのでアテネの郵便局からコート(ベニスの写真参照)を日本に郵送した。6月に届いた。



ギリシャ ロドス島 :ロドス港(写真下)
アテネから飛行機(B727機 8000円)で来た。初めての窓際席だった。
ロドス島はオスマントルコとキリスト教国連合が取合いをしてきたところだ。





ロドス島はバスで内陸まで見物した。

騎士団長の宮殿だったといわれる場所(下)。

内陸にある考古学博物館〔多分)。路線バスに2時間ほど乗って行った記憶がある(下)





ロドス島:リンドス神殿跡(写真下) 。ロドス港からバスで2時間。今回の旅行の最終目的地だ。岩山上の柱の立つ所が神殿跡だ。中世までは砦として利用されていた。日本のガイドブックには紹介もされていない、ここを目的地としたのは、ヘロドトスの「歴史」を読んだりしていたので、この辺へ行って見たかったからだ。
「歴史」に出てくる、2500年位前に世界中の英知と富を集めたソクラテスやソロモン王、クロイソス王はこの辺り(エーゲ海やトルコ沿岸)の人だ。


ロドス市内から路線バスで向かったが、乗っている観光客は私だけだった。海岸沿いにあるバス停を降りたが、お土産店もレストランも開いていない。神殿までの道をトボトボ登った。神殿には地元の人が数人いたが、観光客はいなかった。

リンドス神殿(下)
今見ると、なぜこんな角度から、この写真が撮れたのか不思議だ。 ギリシャ政府観光局の写真を見たら遺跡によじ登らねば不可能な角度なのだ。



ロードス島では同じペンション(朝食付き)に4日(3泊)もいたので、ペンションに出入りしていた若者の知り合いが出来る。最後の夜KAWASAKIやSUZUKIのオートバイに乗っている若者達と開店時間直後にディスコに行った。KAWASAKI(下)



帰りはアテネまで、地中海クルーズ(船中2泊)にした。しかし竜巻(台風?)発生でロドス出発が2日遅れる。豪華客船を期待したが、青函連絡船より二回り小さい普通の連絡フェリーだ。客室の雑魚寝エリアはゲロ臭く、甲板のごろ寝で過ごした。

途中の島


クレタ島などを,回って、再びアテネへ着く。


船が遅れたので、朝のアテネに着いたときは、あと4日(3泊)で帰国だ。そろそろパリに帰らねばならないが列車だと1万2000円、飛行機だと3万円掛かる。クルーズ船を降りてから、バスでアテネ中心部のバスターミナルまで行った。バスを降りたとき、バス停前の旅行社の店頭に「トルコ航空でアテネ発イスタンブール経由ブリュッセルが8千円」のビラが張ってあるのが目に付いた。
「これはまだ席はあるか?そしてイスタンブールで降りることができるか?」とそのとき旅行社受付にただ一人いた、女性従業員に聞いたら、流暢な英語で「お前の英語が分からない。私は日本人ではない。ウヘハハ」と言う。しかたなく、バスターミナルの近くでコーヒーを飲んだりで時間をつぶした後にもう一度行った。受付は、やはり先ほどの女性で、再度「お前の言うことが分からない」と言った。この時代の日本は、田中角栄の放った高度成長策の真っ只中で、工業製品輸出で世界中から富を集め始めており、数年前にドイツのGDPを抜き、アメリカ、ソ連、に次ぐ経済大国になっていた。一人当たりの所得も北ヨーロッパ諸国並みになっており、欧州内の所得の低い諸国では、やっかみからの黄禍論が出始めていた時代でもある。この女性の態度は私に対する意地悪い差別臭かった。ギリシャの平均賃金は日本の1/3以下なのだ。意地悪の最中に特有な、ちょっと自慢げな笑顔を見せていた彼女が無表情になるのを見ながら、奥の男性従業員に「ミスター」と声を掛け、チケットの有無とイスタンブール降機の可否」を聞いた。彼は端末を調べて「ある。降機OK」という。切符を購入すると言ったら、道路の反対側に止まっているバスに大声で「オーイ、この日本人が乗るので出発を待て(多分)」と言った。イスタンブールからの出発便は、天候を心配し、明日一番の便にした。切符が出るまでバスを5分くらい待たせた。航空券を発行した後、バスの車掌に「この日本人をトルコ航空受付まで連れて行け(多分)」と言った。バス中では、車掌から「お前の為に急いでやる(多分)」と言われた。運転手は「俺に任せな」という表情を見せ、バスはスピードを出し追い越しをしながら走った。空港では、車掌の先導で走ってトルコ航空の受付に着いた。職員が待っていた。すぐ飛行機が出た。


トルコ  インスタンブール ホテルからシルケジ駅へ向かう。


トルコ  インスタンブール アタチュルク橋(ATATURK) 写真下

川は金角湾(Golden Horn Bay)

アタチュルク橋からのガラタ塔


アタチュルク橋近くのホテルは共同トイレで、便器の上にシャワーがある。シャワーの利用ルールが分からなかったが、構造上便器をビショビショにしてよいのだろうと思い、シャワーを浴びてから外出した。

イスタンブールでは国家元首の気分が味わえた。東洋人が珍しいのだろう。道を歩いていると満員のバスの全乗客がこちらを向いており、バスの運転手も横目で見ている。車は私の注意を引こうとクラクションを鳴らし、そちらを向くと運転手は大喜びだ。歩く人は、私の一挙一投足を見逃すまいと立ち止まり凝視する。橋の上で町を見物していると汽笛が鳴り続ける。下を見ると千トンクラスの橋下を通行中の船の船員が皆こちらに向かって笑顔で手を振っている。手を振り返すと近くに通行中の船も汽笛を鳴らし船員が手を振る。
両替しようと銀行に行くと、私が進むに従い銀行の中が静かになる。そして窓口に着き、私が女性に話掛けると、銀行強盗にあったかのようにパニック状態になる。一人などはキャーと言いながら、事務所奥に逃げた。しばらくすると、英語が出来る男の幹部が緊張した面持ちで出てきた。「両替したい」と言うと彼は、ホッとした表情になって大きな声で訳し、周りの人たちは安心した仕草を見せて東洋人の観察を続けた。
ちょうどこのときは2回目のドルショックの日だった。ドルは急落しトルコの銀行ではドルとの交換を1回:10ドルに制限していた。


イスタンブール ガラタ橋にあるイエニ モスク(Yeni Cami)  写真下

散策の途中、6歳くらいの汚い靴磨きの少年が、重そうな靴磨きの道具を肩に掛けながら、ずーと後を付いてきた。手持ちのリラではホテル代や食事、空港までのバス代を払えないかもしれなかったので、闇両替をしようと橋を越えたインスタンブール駅(Sirkeci Gari)のある地域まで来ていたし、暗くなっていたので私はこの子が迷子になるのではと心配して話掛けたら、すごくうれしそうにした。そして横に並んで、トルコ語で「彼は近藤だ」と言いながら歩き始めた。ちなみに私の苗字は「近藤」ではない。
一緒に歩くんだから、大人の俺が道具(椅子と靴箱くらいの箱)を持ってやるよ日本語で言ったら、貧しい自分を恥じたらしい表情を見せ駄目だと遠慮した(多分)。
「美味しいレストランに案内してよ」と言ったら分かったらしく下町の小汚いレストランに案内した。「一緒に食べよう」と言って身振りで示したが入らなかった。
私だけ入って手招きした。彼が入るそぶりを見せたらレストランの主人が、入口の前に立って「ここはお前なんかの来るところではない(多分)。」と靴磨きを怒鳴りつけた。彼は瞬く間に逃げた。
この店でも、大歓迎でジェスチャーとトルコ語で「日本人か?」「コマンドか?」と聞いてきた。
9ヶ月前(1972.05.30)にテルアビブ空港で岡本公三他が、機関銃を乱射しイスラエル人等を24人殺したので、日本人のコマンドはイスラム圏の英雄なのだ。靴磨きの子が近藤と言っていたのはコマンドだったのだ。

ホテル近くの靴磨きが付いてきた辺りまで戻ったときに、一緒に食事が出来なかったのでケバブでも奢ってあげようとしたことと、迷子になっていなければよいがと心配したので、彼を探したがいなかった。

ホテルに帰るとテレビのニュース画面(ヨーロッパと日米はテレビの放送方式が違うので、当時のテレビ局では相手のテレビ画面を自方式のテレビカメラで写すという変換をしていたため画面は鮮明でない)で田中首相が、ドルショックに対する日本の対応を国会で説明していた。この時のドルショックはアメリカから日本が儲け過ぎたのが原因なので、世界中で日本の対応を注目していた。トルコのテレビでもトップニュースで、悪役ニクソンの次は金満TANAKAのお出ましだ。
トルコ語の音声の裏で小さく聞こえてきた、だみ声は約10日ぶりの日本語だった。

ホテルに帰って、ビショビショにして出てしまったを気にしていた共同トイレを見た。床は濡れたままだったが便器は誰かが拭いたのだろう、乾いていた。
共同のトイレ・シャワー室での利用ルールは、現在も不明のままだ。

上の写真の1973年と2007、,2008年比較



翌朝、トルコ航空の最新鋭機DC10(数ヶ月後に、設計不良の貨物ドア落下が原因で墜落)でブリュッセルへ飛んだ。満員だが2度目の窓際席だった。しかし、アルプス上空でトイレの隙に、初めて飛行機に乗ったらしいトルコ人に、私の窓際席を取られた。そのとき私は飛行機が4度目となっていたので、鷹揚に席の奪取を許した。

窓からのアルプス


ブリュッセル空港では、空港の列車駅で会った日本人サラリーマンに「パリ行きの列車に乗るなら○駅(多分南駅)で降りなさい」と教えてもらった。その鉄道駅で、ブリュッセルからパリまでの列車時刻表を見たら、3時間で行けるのが信じられなくて、心配した記憶がある(本当にあのフランスのパリなんだろうか?)。パリ行きの特急列車はそんな数がなく、また出発間際だったので、駅前と駅中をちょびっと歩いただけで、パリまでの特急列車(3〜4000円)に乗った。時刻表通り約3時間で午後のパリに着いた。
翌日は、最後のパリを楽しむ。前述のエッフェル塔を階段で登ったのはこの日だ。

ヨーロッパ最後の晩餐に、大学街(カルチェ・ラタン) でちょっと高そうな中華料理店に入り、麺を頼んだ。日本そばのどんぶりに、具は無く日清チキンラーメンが、ぬるいお湯で戻されただけのが出てきてガッカリした。

凱旋門へも行った。




帰国後清算をしたらパスポート取得や国内交通の費用を含み丁度30万円だった。現地の3週間で11万円弱くらい使っていたが、安く済んだと思う。主に物価が安い地域に行っていたのと、乗物泊(5箔:列車3泊、船2泊)が多かった、食事をほとんどケバブのような歩き食いやパン屋でパンを買って済ませたことが多かったためだろう。ギリシャで腹いっぱいになったケバブ2つの夕食が80円だったというメモが残っていた。レストランでの食事は平均すると1日に一回も無かった。もちろん入ったのは地元の人向けのレストランだけだ。宿は一泊当たり100円(ユーゴ)から2,000円(パリ)程度だった記憶がある。ロドスでは24uぐらいのホテルが朝食付きで400円だったというメモがある。
このとき、念の為に親から借りた10万円も持って行ったが、返した覚えがない。
この頃は多分、一ドル308円だ。



犯罪被害としては、テサロノキからアテネに着いた日のユースホステルで日本人に貸した10,000円が返って来なかった。お金が届くまで、食べられないと土下座して頼まれたので渡したのだが、教えてもらった日本の住所は嘘だった。アテネに来るまで暮らしていたイスラエルの共産生活であるキブツ生活の素晴らしさを熱く語った若者であったが、最初から騙すつもりの犯罪者だったのだ。顔が卑しかったのでお金を貸すことに最初は躊躇はしたのだが、キブツに憧れるような変った人は、このような顔になるのかもしれないと思ってしまったのだ。旅行中は騙されるこちらも悪い。それを入れると31万円の費用だ。
欲が強く我慢できない性格なのだろう、30数年前にお金を得る為に、人を騙すという易き方法を選び、犯罪へ流れた彼は、今何をしているのか知りたいものだ、心辺りのある人は
ここへ。アテネでの日本人犯罪者を見つけよう!!


ギリシャでも日本円が両替出来た。銀行員は初めて見たであろう日本円を紙幣辞典のようなものを見て確認する。

多くの人から、うらやましいと言われたのは、ビザがどこでも不要なことだ。30年以上経った現在でも日本人は世界一ビザが不要な国民だ。

ミネラルウォータなどの存在を知らなかったので、主に水道水を飲んでいたが、下痢も風邪もひかなかった。
ベニスのホテルでは、日本のより細長い南京虫に全身をやられた。衣類に入り込んだ南京虫を丁寧に潰したので、ユーゴへは持ち込まずに済んだ。

チップの支払いは、パリでの枕小銭だけだった。

帰国途中、モスクワ空港でウオッカを買ったとき他の1ドル札に混ぜて20ドル札を渡した。帰国後勘定が合わないので気づいた。多分そうだ。

帰りの飛行機はガラガラだった。シベリア上空はずーと湖群が続いたのが印象的だった。

ここに書いたのは、1973年のことである。これらの町が今はどうなっているか知らない。(その後、再訪したのはパリ、イスタンブール、ベネチアだ)

フランス人に時刻表「ブック オブ ザ トレイン タイムテーブル」という言葉(こんな言葉はないのかも、今考えるとタイムテーブル→スケジュールの方が分かり易かったかも)を理解した人はいなかった。一人には駅に書いてあるよと言われた。
30年後のインド旅行でも時刻表は買えなかった。外国では時刻表の需要が少ないのかも知れない。

誰かが言っていた。ギリシャの史跡は2500年前で柱だけだが、エジプトは5000年前で壁も天井も床ある。ギリシャは史跡としては2流だ。世界を股に架けた旅人の感想は、自己過大評価の多い欧米本の訳から得た知識とは違う。多分、正しい評価なのだろう。
エジプトへ行かなくてはと思う。

30年後(2000年くらい)の日本で、山手線車内の液晶の駅名表示板が、当時のパリの地下鉄と同じく左右同じ表示になった。進行方向を示す矢印が付いてはいるが、電車内の左右にある駅名表示板の片方は、表示が進行方向の逆を示している。ちょっとしたことに手を抜くようになった日本を感じた。

パリで食べた牡蠣だが、ちなみに1980年代後半にヨーロッパの牡蠣がウイルスで全滅した。それ以降、ヨーロッパの牡蠣は日本種という。

現地で私が食べたケバブは羊肉とトマト、レタスを挟んでからトマトケチャップを掛けるものでうまい。ギリシャやトルコでは、屋台が多く出ている。
屋台では通常、肉を先にパンに載せ、次に野菜を載せるので、すかさず私はトマトとレタスとケチャップが多いのを好むとオーダする。”プリーズ、メニー トマト アンド レタース アンド ケチャップ メニー、メニー”
最近、秋葉原や上野で屋台のケバブを売るようになったが、中高年になって路上でパクつくのはちょっと恥ずかしく食べてはいない。

この時代のパスポートは、神奈川に住んでいた私のも有楽町の交通会館で発行する。
私の前に並んでいた東北から来ていた人が、前回のパスポートと同じ写真を提出し門前払いを食らった。インスタント写真は駄目な時代なので、受付が一日以上伸びてしまう。ちょっと節約したため高くついたネ!と思った。

旅行で思い出すのは食事のことが多い。地球に生命が出来てから、食事の経験は生死に関係するので、生体的に覚えが良いのだろう。
観光名所などは写真がなければ思い出さない。つまらない普通の景色などを断片を思い出す。これも「ここは住みやすいぞ」的な生体的理由かな。

宿はほとんど飛び込みだった。
例外としては、ロドス島は空港の観光案内所書で、インスタンブールはリムジンバスターミナル(鉄道シルケジ駅)の観光案内所書で、ホテルを紹介してもらった。

前述のようにパリでは誰にも有名人に会わなかった。
私の高校生時代は早稲田の喫茶店で勉強している早大生だった吉永小百合さんや山手線の中や歌舞伎町で加賀まり子、その他などタレント族を見ることは普通のことだった。中学時代は東宮御所の周りの道を散歩中の美智子皇后(当時妃殿下)にすれ違ったりした。乗馬中の今上天皇(当時皇太子)は外苑で何度見たか分からない。中学の下校途中にホカホカの馬糞が落ちているのを発見したら、近くに皇太子がいるものだった。昭和天皇はやはり別格で車に乗っているお姿しか見たことがない。現代のちょっと有名になったタレントが、スタジオ外に出るときに「私だとばれたら騒がれちゃう」なんてうれしそうにテレビで言っているのを見ると、彼らの自意識過剰が気になる。

日本から観光案内書は持って行かなかった。パリはホテルで無料で配布される地図とニラメッコしながらの観光で、ベニス、テサロニキ、アテネでは駅でもらった地図、ベオグラードでは本屋で英語版を購入、イスタンブールは、観光案内所でホテルを紹介してもらったときの、ホテル地図だけだった。


以下は乗った列車。1978年に購入したトーマスクック時刻表だが、時間帯は記憶と同じだ。ただ、ベネチア出発は8:00だ。






乗ったのは下のどれかだが、多分82だろう。





おまけ パリの地下鉄切符(1978年)

日本では、自動改札がまだ無い時代なので、磁気ストライブが珍しかった。




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2003.03.03初載
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