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        オーストラリア 2015.02.08(日)~17(火)

シドニーへ

2015.02.09(月)


 ホバート (タスマニア)
2015.02.08(日)のチャイナエアーライン18:30発CI017便で成田空港から台北桃園空港へ。21時30分の着後、23:00発CI051便でシドニーSydney(SYD)行きへ乗え換る予定だ。成田出発が1時間以上遅れ、更に台北桃園空港の着陸待ちで遅れたので、台北着が23時05分になっていた。ボーディング・ブリッジ出口で「CI051 Sydney(SYD) 悉尼」と書いてあるボードを持っていた職員の案内で23:20にシドニー行きに乗り換えた。
桃園空港の乗換セキュリティチェックは簡単だった。飛行機を出てから係員が付き添っていたからと思ったが事情通によるといつも簡単なんだという。到着ゲートと出発ゲートは空港ビルの両端にあり、またシドニー行きの出発時刻が過ぎていたので速足で移動した。
桃園空港でCI051便シドニー行きに乗ったとき、私の席には中国(台湾?)人が座っていた。出発時刻を過ぎたのだからと、レイアウト的に良い場所だった私の席へ後ろから移ってきたらしい。座席横で頭上荷物棚(overhead bin)へリュックを入れていたら、声をかける前にあわててどいた。桃園空港も混雑で23:40発。

着陸時のシドニー。
離着陸時にオペラハウスやハーバーブリッジが見えることは少ないのだそうだ。11:41

この時、1AU$=93円
シドニーには30分遅れの11:50着。その後、国際線空港から隣の国内線空港へ移らねばならない。
オーストラリア内の移動はバージンオーストラリア航空を使う。バージンオーストラリア航空の国際線空港事務所前から国内線空港行きの連絡バスが出ているのを知っていたので、空港事務所へ行った。そこにいた背の高い痩せたOZ系40歳代女性係員は航空券を見せたときに「国内線空港まで行く必要がある」と言った。「勝手にタクシーを使って国内線空港に行けば」という対応だ。事務所前に国内線空港間を行き来しているバージンオーストラリア航空の連絡バスが停まっていたのにそれを教えない。少し大きな声で「以前はここからの連絡バスが使えた。最近、我々が乗れないルールに変わったのか?」と聞いたら「あなた達はここまでバージンオーストラリア航空で来たわけではないので、乗せるの義務はないのよ(多分)」と言いながら連絡バス券を寄こした。
お礼を言って受け取ったが、この面倒なやりとりで気持ちが「気丈」モードに入ってしまった。楽しい旅行気分が萎えた
バージンオーストラリア航空は、お客が気持ち良く連絡バスが使えるように対応改善すべきだな


バスの乗客は我々と一人の若者だけだった。

14:05発バージンオーストラリア航空のVA1534便でタスマニア(Tasmania)のホバート Hobart(HBA)へ。
ホバート16:00着。ホバートはオーストラリアで2番目に古い町だ。
タクシーでSomersetOnThePierHobartホテルへ向かう。このホテルは埠頭の上に建っている。
この日は、ホバートのお祭り(フェスティバル)で埠頭周辺が歩行者天国区域に設定されており、ホテル前までタクシーが入れなかった。100m歩いて、16:50ホテル着。
このホテルはアパートメント形式でキッチンや冷蔵庫がついていて自炊ができる。

夕方のホテルベランダからの景色。20:08

サマータイムなので日本とは2時間差。さらにタスマニアは南緯が高いので20時過ぎなのにまだ明るい。R49。
上写真の前に、サラマンカプレース(SalamancaPl)のレストランMaldini
 で夕食を摂った。
ホテルのフロントでレストランの場所を聞いたら、地図に印を付けながらここ(サラマンカプレース)に多くあるよと教えてくれたのだ。
サラマンカプレースを中ほどまで歩いて、混んでいて美味しそうなレストランを探した。
前述のように、この日はお祭りの日で、通りには仮装したり酔って奇声を上げたりで騒いでいる人が大勢出ていた。OZの男性は体が大きく大勢で騒いでいると近づくのがチト怖い。ホモサピエンスの中でもアングロサクソンは、敵味方の区別で態度を変えやすく、気に食わない人間を敵と思う性癖をもつ。そして敵と思う相手へ暴力的になる特徴を持つ。
親が大統領の時代に戦争をしたので気に食わないと思っていた異教徒国家のイラクのフセインに嘘の言いがかりをつけ、親と同じく宣戦布告もせずに、爆弾や劣化ウラン弾を雨のように落とし、5万人のイラン軍人と50万~120万人の民間のイラク人を殺し、フセイン一族を皆殺しにし、フセインの尊厳を落とすためわざわざ浮浪者のように写っている写真や処刑動画までを公開させたジョージ・ブッシュ前大統領が代表的なアングロサクソン的思考パターン人間なんだろうな。
私はタスマニアには無関係な人間だからアングロサクソンの酔っ払いに区別されるとすれば敵方だ。
この店(Maldini)の左の店が一番混んでいたが、店の入口前のテラス席は酔って大声で騒いでいる若者グループに占領され、通路に投げ出された足も出ていて入りにくい。その次に混んでいたのがこの店だ。テラス席に大声で騒いでいる若者だけではなく、笑いながら話し込んでいる初老グループもいた。通路に投げ出された足もなかった。ホバートは小さな町なので地元の老若男女は皆、顔見知りなのだろう。店の入口前でテーブルを拭いていたウエイトレスに「店内は空いている?」と聞いて案内を頼んだ。店内に丁度一つだけ席が空いていた。ちなみに、オーストラリアは路上飲酒が禁止されているからか、テラス席や立ち飲みパブの入口付近で飲むのが人気だ。

左側はタスマニアの地ビール(James Boag)。右はイタリアの老舗「ペローニ(Peroni)」。追加:2016年にペローニはアサヒに買収された。19:37


店頭メニューには食事が少なかったが、周りの人達の多くが食事をしていた。
オーストラリア最初の食事は、タスマニアに来たのだからとシーフードを食べたかった。ウエイトレスの持ってきたメニューには、シーフードスパゲティが無かったが、シーフードリゾットはあったので、頼んだらOKだった。19:54

シーフードスパゲティ。量が多い。ビールとワイン。ムール貝以外は美味かった。スパゲティにスプーンは出ない。右の椀はムール貝の殻入れ。それにしても、日本では美味しくないからと食べないムール貝が西欧系料理に使われるのはなぜなんだろう。
日本ではこれから百年以上も産地を気にして魚類を買う必要があるが、ここの放射能の心配が無いシーフードがうれしい。ちなみに南北半球の地球気候は独立性が高く、気候変動は南北半球で数千年ずれるという説や気候変動当初は逆に動くというがある。現在は公転軌道の離心率や地軸の角度から南半球の方が、寒暖の差が激しい時代である。

私はチリ産のシャケを良く買う。安心だからだ。南半球産の海産物に日本で需要があるのは大手スーパーが分かっている筈だ。チリ以外の海産物が大手スーパに置いていないのは行政からの嫌がらせを心配しているのだろうか?

下の写真はホームページから。



2015.02.10(火)

ホテル横のレストラン
T42”で朝食。
08:31

席に座ったらウエイターがメニューを持って来た。
エッグトーストにベーコンとトマトを追加したブレックファーストを注文した。
量が多かった。フライドエッグ2個にフライドベーコン200gぐらい。トマトは焼かれていた山盛りポテトサラダ。トースト1枚。カロリー過多だ。
卵を半分残したが、油脂まみれのベーコンは久しぶりだったので全て食べてしまった。

42degreesの店カード。



t-barはtavern(居酒屋)をもじったのだろう。42°は42degrees。
多分緯度からとったのだろう。ホバートは42° 52′ 50″ S, 147° 19′ 30″E 

午前中は下のバスでホバート半日ツアー(英語)
ホバートの主要観光地を周った。
9:20にBrookeSteetPierのポストで待ち合わせ。ツアーバスの運転手さんと女性係員が待っていた。運転手さんとツアーバスの出発場所であるタスマニアン・トラベルセンターまで歩く。タスマニアン・トラベルセンターはホテルからBrookeSteetPierのポスト同じような距離(ホテル玄関から約150m)だったので、なぜ、BrookeStPierのポストが待ち合わせ場所だったのか不思議な気がした。まあ、BrookeStPierのポストで待っていたのは我々だけだったから、確実にツアーに参加できる待ち合わせ場所だったのは間違いないから、ありがたかったことではある。

ツアーバス。
お客は5人だった。OZ(オージー:オーストラリア人)の老夫婦。一人旅のOZ中年女性。我々。

バス横。


江ノ電に車体や色、模様が似ていると思った。江ノ電:下写真2枚。
 
下はイスタンブールの路面電車。赤い車体だが窓回りはクリーム色、そして黄色の飾模様は、ツアーバスや江の電と同じだ。



アーサーサークル(バッテリーポイント)。
アーサーサークルは写真スポットらしい。
ホバートの高級住宅地でプリンセスパークの近くにある。9:52
日本に比べるとそうなんだろうが、家が小さく観光スッポットになるほどの立派な家々とは思わなかった。まあ、ホバートにはこんなところしか観光案内できる場所がないということだろう。

このホームページの壁紙色は上の写真から採っている。

アングルシー・バラックス(兵舎)。anglesea barracks。10:19

アングルシー・バラックスにいたウサギ。10:19

近づいたら首をチョッ上げたがすぐ元に戻った。

カスケードガーデンズ下にバスが止まる。公園を登って行くと、カスケードのビール工場(跡)がある。オーストラリアで一番古いビール工場という。10:39

旅行記の一番終わりにCASCADE缶ビールの写真あり。CASCADEはタスマニアのビール。

カスケード女性刑務所跡。翌日に行くポートアーサーとともに世界遺産「オーストラリアの囚人遺跡群」の一つとして登録されている。10:56

上は運動場。囚人遺跡の世界遺産の一つである。

途中の景色

ロスニー丘(Rosny Hill)から。
右はタスマン橋。対岸のホバート側を見る。11:29


対岸の左側に泊ったSomersetOnThePierHobartホテル部屋の3階が見える。


タスマン橋の対岸の取付部の森が王立タスマニア植物園。ロスニー丘(Rosny Hill)から。



王立
タスマニア植物園(Royal Tasmanian Botanical Gardens)。ここには広い日本庭園がある。
日本庭園内の池。


鳥は日本庭園内にいたタスマニアバン。タスマニア島固有種のクイナ。12:22


ツアーコース。
カスケードガーデン(Cascade Garden)下車観光後に、バスはカスケード醸造所(Cascade Brewery)へ寄らずに元来た道を通り女性刑務所に行った。我々と一人旅の女性はカスケードガーデンから徒歩でも醸造所まで往復した。

この植物園で半日ツアーは終わり。市内に帰り12:35解散。

一度ホテルへ帰ってから、エリザベスモール内のウールワース(WoolWorths)、酒屋で、果物(マンゴー、カット済メロン)、パン(クロワッサン、オリーブパン)、ハム、バター、卵、、ヨーグルト、牛乳、ワイン、ビール買う。
重かった。
ここで買ったオリーブパンとバターは食べきれず、シドニーまで持って行った。
ホテルまで300mだが、重かったのでタクシーに乗ろうとしたが、車が来なかったり、優先者の身障者が現れたりしてなかなか乗れなかった。諦めて歩く。
午後のホテルからの景色。16:05


16:05

この日の昼食と夕食は部屋食。


2015.02.11(水)
朝食はホテルの部屋。

今日は、リッチモンド・ポートアーサー・タスマン半島1日観光ツアー
(日本語)
ガイドさんがホテルまで来る。9:00出発。

リッチモンド。
リッチモンドはホバートから車で3~40分ほどの田舎町だ。
セントジョン教会に寄った後、囚人が作ったリッチモンド橋へ。オーストラリアで一番古い石橋だそうだ。「こんなところが観光地なんだ」という場所である。
まあ、浅草の仲見世もそんな気がする場所だから、観光地の中にはこういうところもあるということだろう。9:50

ここにもタスマニアバンがいた。

赤い目の動物は、一般的に日本では人気がない。ヤマタノオロチは目が赤かったし雪女が悪役で出てくるときや、妖怪やキツネが悪さをするときは目が赤く描かれる。

しかし、ここのタスマニアバンは愛情豊かな親子で、可愛く感じる。私は通りがかりの人間で何もできないけれど、人間の勝手で不当な評価に負けず頑張れよ。





ポートアーサー( Port Arthur)。
囚人が連れて来られた刑務所。ここも囚人遺跡の世界遺産の一つ。11:42

リンク

独房。


独房で囚人はこんな格好をさせられていた。


独房内にはこんなプラスチック板の等身大人形が置いてある。

日本だったらこの看板だけでなく、近くにこのような服装をさせたアルバイト学生を配置し、モグモグ言わせるであろうな。いや、今は学生の取り合いだから、シニアや老人世代のアルバイトかな。そういう世代だったら小柄な人が似合う。


11:54


ポートアーサーにたくさん落ちていたワラビーの糞。11:59

体重5~6kgの犬のものの太さ。ワラビーは夜に出てくるという。


入獄の囚人例。
馬泥棒だ。

下は銀のスプーン泥。


ポートアーサー内の案内板。中国本土からの観光客が多いのが分かる。看板の茶色はサビである。多分、タスマニアは鉄板が看板になるまでに経る加工業が弱いのだ。

また、こういう看板を見ると日本と中国は漢字字体と単語の統一が必要なことに気付く。
ザックリだが人口比の中国10:日本1の割合で日中の漢字と単語の統一をしたらどうかと思う。台湾は0.2かな。

囚人が刑期を終え、監獄を出るのはオーストラリアの地である。イギリスへ帰るお金もないからここで邪魔なアボリジニや先住のインドネシア系を殺しながら土地を奪い、森を焼いて農地にして住んだのが現在のアングロサクソン系オーストラリア人(OZ)の先祖である。





余談 (余談スキップはここ


現代のオーストラリア人は「アボリジニの減少は我々の先祖が持ち込んだ病原菌による病死がほとんどで直接手を下した殺人は少なかった」と言い訳をしているが、実際は入植したオーストラリア人(OZ)は週末に銃を持ちレジャーとしてアボリジニ狩りをしていた。当時の新聞には週末の狩りの結果としてに誰それは何人殺した、誰それは何人という記事が載った。アメリカインディアンの殺戮の状況と同じである。そのような新聞記事は釣り舟新聞のお客が何尾の魚を釣ったという記事と同じだ。

現代でも大量殺人は白人男性しか起こさないという。ヨーロッパで2万年前まで行われていたネアンデルタール人との数万年間の殺し合いの歴史がそのようなDNAにしたのかもしれない。じゃあ、アジアでのホモ・エレクトス(ジャワ原人・北京原人系)とはどうなんだと聞かれそうだが、殺し合いの証拠は発見されていないから無かったのだろう。アジアは雨が多く温かくヨーロッパより肥沃な土地だ。氷河期ならその差は尚更である。間氷期の現在でもアジアとヨーロッパの人口密度は全然違う。

上は放送大学の「ネアンデルタール人はなぜ滅びたのか」から。
ネアンデルタール人は赤髪で目が青かった。数十年前にネアンデルタール人が描かれたときは毛深い筋肉質、暴力的でお頭が弱かった。最近のネアンデルタール人が好意的に描かれるのはアフリカ系以外の現生人類(ホモ・サピサピエンス・サピエンス)と遺伝子的な混血が分かったからだ。本来の現生人類は黒髪、黒い肌、黒い目という。

下は放送大学「現代地球科学」から。

現在より地球の気温が-9~-10度下がっていた1万8千年前は、ヨーロッパやアフリカ北部は海氷や積雪地帯で、イギリスも現在のグリーンランドのように氷床に覆われた。そのころの日本や朝鮮半島も海氷地帯だったが氷床には覆われていない。そして上海、香港辺りまで積雪地帯である。




ホモサピエンスの世界拡散は今まで私が思っていたより最近だった。(放送大学から)

マダガスカルやスリランカの子供達に蒙古斑があるのはこういうルートだからか。

アメリカ大陸で発見された最古の人類化石はアイヌとDNAがほとんど同じという。縄文人はアイヌのDNAという。縄文人がアメリカ大陸へ渡った最初の人類だという番組(地球創世記:2016/12)がNHKで放映された。渡航ルートは千島列島からアルーシャン列島経由と言っていた。上の氷期の地球図で、千島列島は氷床地帯じゃないから島伝いに舟で移動したのかな?

酸素同位体レベルからは、現在の氷河期はこの5億年では2番目に寒いと言われている。下はウイキペディアから。

現在の地球は約4、5000万年前から氷河期(glacial period)だ。(上図では5000万年前からになっている)
右の座標単位はパーミル(‰、1/1000)。
地球上の水H2O中の酸素はO16が99.762%、O18が0.204%。水蒸気は軽いO16が多い比率になるので、寒い気候だと氷河や積雪にはO16が多く含まれ、海水のO18比率が高くなる。その時代の化石を調べると氷河期が分かる。O18が0.204%から0.205%になると上グラフは+4.9動く。
いままで爬虫類が日向ぼっこをして体温を上げるのを不思議に思っていたが、彼らは気候が暖かい時代から生き永らえてきたからだな。地球が氷河期から抜け、暖かい気候になったら爬虫類はすばしっこくなり哺乳類の体温常温性は無駄な機能になるから、彼らの天下が来るのかもしれない。

CO2レベルからは、現在はこの6億年では1、2番目に寒い氷河期の中にあるらしい。下は放送大学「宇宙・自然システムと人類」から。

全球凍結はもっと古い時代のこと。下の図参照。
「PAL(Present Atmospheric Level)」は、二酸化炭素が、現在の濃度と比べて過去にどれだけ存在したかの濃度比をという。20PALは現在の20倍の濃度。ちなみに現在の二酸化炭素濃度は398ppm。

1億年前(白亜紀中期)からの二酸化炭素濃度変化。矢印部分は産業革命時点で、自然要因では長期低落傾向と推定されているも、実際には化石燃料起源の二酸化炭素により急増している。


地球の歴史。以下8枚の写真は全て放送大学。

10億年後には地球上の生命が終わる。この他にも間近というペテルギウスからのガンマー線バーストの向きによっては生命絶滅ということもあるらしい。


太陽からの放射熱が45億年前の約1.5倍になっているのに、地球の気候は温暖なまま(現在は全地球平均+15℃)なんて、すごい幸運が重なったのだろう。
そう考えると現時点で宇宙に地球以外に生物がいる可能性は少ないと思えてしまうな。



灰色がセプコスキのデータ、緑色が"well-defined"データ、黄色の三角が5大絶滅事件(ビッグファイブ)。2億5100万年前に位置する谷間がP-T境界、右側6550万年前の谷が恐竜が絶滅したK-T境界
2億5千万年前に生命史上の最大絶滅があった。そのときの約900万年間、酸素が薄く寒かった。この時期の地層には隕石に多いイリジウムが多いが、クレータが少ないという特徴を持つ。これを説明するのに暗黒星雲の中に入っていたため、宇宙からチリが降り注いだという説がある。暗黒星雲内はスターバーストが多くなり強い宇宙線が多く発生する。通常は地球が太陽風の内側にあり宇宙線が少ししか入って来れないのだが、近場でのスターバーストのため地球に宇宙線が多く降り注き、生態系を壊したのだという。6500万年前の恐竜の絶滅時も隕石クレータが出来た時と大量絶滅時期が合わないので、暗黒星雲の中に入ってい可能性があるという。その、暗黒星雲はどれかがは望遠鏡では、見えないのかな?太陽は銀河の周りを1400年で1光年文の距離を動くというから最大で5万光年離れているのかもしれないな。

また、大陸数が少ないときはクレータ数が少ないが海に出来たクレータは何億年も消えないものなのだろうか?また、現在は隕石落下が多い時期に見えるのも心配だな。


太陽系は銀河を2億2000万~2億5000万年で一周するそうだが、5億年前、2億5000万年前の絶滅と周期的に一致する。そろそろ次の大絶滅時期なのかもしれない。ちなみに太陽系の惑星の公転面は、銀河の円盤面と同じ面上にある。北側の上から見て時計方向に回っているという。(放送大学:初歩からの宇宙の科学)

最近、地球の磁場が弱くなっているらしい。前回弱くなり磁場が逆転したときの78万年前は、寒冷化になった。当時の花粉の研究から大阪は現在より3度気温が低く、青森あたりの気候だったらしい。


赤は磁場の極が現代と同じ、青は磁場が逆転していた時期。上写真の白い線は磁場が消えていた時期という。

下は放送大学「地球環境の形成と変化」より。

生命の種になったアミノ酸は彗星から来たという説は、上の温度変化から昔のアミノ酸は分解されているから出されたのだろう。しかし、海と多様な元素が地表にあった冥王代にアミノ酸が合成されたともいう。彗星説よりも後者が正しい気がするな。





地球の年代            1Maは100万年前(数値は紀の開始時期)
累代eon era 紀(period Ma
顕生代
Phanerozoic
新生代
Cenozoic
第四紀Quarternary 2
新第三紀Neogene 23
古第三紀Paleogene 66
中生代
Mesozoic
白亜紀Cretaceous 146
ジュラ紀Jurassic 200
三畳紀Triassic 251
古生代
Paleozoic
ペルム紀(Permian) 300
石炭紀Carboniferous 359
デボン紀Devonian 416
シルル紀Silurian 444
オルドビス紀Ordovician 488
カンブリア紀Cambrian 542
原生代
Proterozoic
新原生代
Neoproterozoic
エディアカラ紀Ediacaran 630
クリオジェニアンCryogenian 850
トニアンTonian 1000
中原生代
Mesoproterozoic
ステニアンStenian 1200
エクタシアンEctasian 1400
カリミアンCalymmian 1600
古原生代
Paleoproterozoic
スタテリアンStatherian 1800
オロシリアンOrosirian 2050
リアキアンRhyacian 2300
シデリアンSiderian 2500


上は 放送大学の「現代地球科学 第10回 地球の気候とその変動」からの南極氷床コアのデータ。10万年周期で暖期(間氷期)が来ている。気温が急に上がってゆっくり下がるというのが特徴だ。
ダストは主に火山噴火時に出る硫黄酸化物。大気中に多いと雲が出来やすくなり太陽光の反射率が高くなる。7万年前のダストと気温グラフの山と谷はトバ湖カルデラ(インドネシア)が 巨大噴火で作られた時のものだろう。阿蘇カルデラが作られた8~9万年前の噴火の影響が小さいのは南極のデータだからか。
下はグリーンランド氷床コアからの酸素同位体比(気温変化)。ここから(コピー)。

酸素同位体比変化(気温変化)グラフの上下の激しい時代だと、数年で10度の気温変化が起きるという。そうなったら農耕は出来ず、移動しながらの狩猟しか生きる術はない。
 
10万年周期の気候変動だと、1万年前から気温が下がり始めてもよい時期に入っているのに、この一万年間が暖かい気候(間氷期)のままである理由は不明という。まあ5500万年前に突然地球の温暖化が起きた時の原因と言われるノルウェイ沖からのメタンハイドレ―ド大噴出(LPTM(PETM))と同じぐらいの炭素量(1000ギガトン)を人間は農耕文明を手に入れた1万年前から現在までに燃やしたらしいので、それが原因という説がある。下は放送大学の現代地球科学より。

LPTMで出たC13はどこへ行ったのだろう。C12が火山からCO2として地中から出てきて偶然に同じ量のC13が石炭化などで地中に取り込まれたというのかな?不自然だな。


しかし、メタンガスを植物は取り入れないが、二酸化炭素は植物が取り入れてくれる。この一万年間の気温が温かい理由が人類が燃料を燃やしたからだというのがハズレで現代に突然の寒冷化(氷期)が起きたら、赤道付近の陸地の取り合いで、大戦争だ。日本の一億三千万人の人口のうち、石器時代と同じ人口の数万人を残して餓死する時代が、来るかもしれない。
今の日本の農業は税金へたかることで生きており無駄が多い。日本政府は国内農業への補助を止め、オーストラリア政府の協力を得て、赤道近くに四国程度の大きさの土地を借り、砂漠の農耕地化を国家プロジェクトとして進めたり、ロシア政府の協力でシベリアの氷床や永久凍土地帯の地下に巨大食糧倉庫を作る政策への転換をすべきだと思うな。
シベリアで3万年前の肉が食べられる状態のマンモスが見つかったという新聞記事を見たことがある。
2015.12.27(日)の日経に載ったオーストラリアの土地開発に関する
記事。みんな考えることは同じだな。


現在の日本列島の冬は地球の同緯度で比較すると世界で一番温度が低い地帯である。(下で赤の線グラフが気温)これは、チベット高原の影響という。放送大学「現代地球科学」から

T:気温、Z:気圧、T500は500hPa大気の気温。
日本の夏の暑さはユーラシア大陸中央部に比べればましといえる。カルフォルニアは冬暖かく夏涼しいので住みやすいのが分かる。


日本人の先祖は縄文時代後期に稲作文化を持って朝鮮半島や樺太経由で来たという。そして縄文文化を築いていた土着の南方系(熊襲やアイヌ)民族に取って変わったという。しかし、日本人のDNAは混血を示している。日本人の先祖は、オーストラリア人の先祖のように土着の民族を皆殺しにして土地を奪っていない。
現代の大阪・奈良・京都の大部分の住民は南方系との混血が少ない朝鮮系という。これは古墳時代以降の移民・難民(百済滅亡時など)の子孫とされている。
徳川家康(上)は縄文系の顔だが、徳川慶喜(下)は朝鮮系の顔である。




ちなみに、縄文人は世界最古の土器を作った。
下は土器の出現時期(Nスペ)。土器は日本から世界に広がった。

縄文土器

また、栗やドングリを植樹し、そのころの日本列島の人口密度は世界一だった。そのような社会を作るために、当時の縄文人は世界一の創意工夫民族であったに違いない。

2016.05.08 日経




今の日本人にも創意工夫が得意な遺伝子が受け継がれていたから、30年前にジャパンアズNo1の社会を作れたのだろう。自画自賛が大好きで自分が正しいと、外のより良い文明や文化から目を背けたがる体質なのだろう。わが身を顧みて反省するなあ。
iモードで世界最先端の携帯電話を作りながら結局日本国内だけで終わったことや、80年前は既に飛行機が戦争の主役になっていたのに、その40年前の日露戦争に勝ったからと戦艦主義を捨てきれなかったことと重なる。
ちなみに鬼界カルデラが出来た7300年前の大噴火で縄文人が九州で絶滅、西日本でほぼ絶滅した。2011年の大震災以降、日本の火山が活動期に入ったとされる。27万年前から9万年前4回のカルデラ噴火を起こした阿蘇は大丈夫なのかな?

火砕流が海を渡って九州を襲った。


脳科学者の中野信子氏によると日本人は世界一、不安になりやすい国民であるという。セロトニンに S遺伝子をもつ人は、脳でセロトニンを使い回しづらくなるため、もたない人より不安傾向が強く、新しい刺激に対して回避的で、大胆な意思決定をしにくいという。前例に倣ったり習慣を壊さないのが心地よい国民性なのである。セロトニンの遺伝子の組み合わせは、SS、SL、LLの3通りになるが、日本人では、SS型とSL型を合わせた不安遺伝子が強くなるS遺伝子を持つ人が約98%。新しい物事を恐れず、大胆な行動を取ることのできるLL型の人は2%程度しかいないのだ。ちなみに、アメリカ人ではLL型が32%。
これほどまでにS遺伝子を持つ人の割合が多いのは、世界でも日本だけという。つまり世界一、不安になりやすい国民であると判断できるのだそうだ。世界中の創業200年以上の企業5,586社のうち半分以上の3,146社が日本に集中しているのも、それを証明しているという。

日本が生んだ一番の政治家は聖徳太子と思われるが、彼はLL型だったと思う。本人は熱心な仏教徒だったらしいが、神道系信者と仏教系信者で内戦状態になったときに、両方とも良い宗教なのだからお互い両方とも拝めばいいじゃないかと言って収めた。そういう発想が出来た聖徳太子は縄文系のセロトニンLL型の可能性が濃いいな。
S学会が他宗教を認めないのは教祖がSS型で心配性なのだろう。信仰する信徒もSSで、教義も心地よい自画自賛が多いのだろう。あの自賛党名を持つ政治家は「心配症だから自画自賛」の発言をしてるに違いないと思いながらチェックすると面白いだろうな。

余談終わり

タスマンアーチ。13:16


デビルズキッチン。
昨年見た足摺岬の何倍ものスケールの断崖だ。13:21


昼食を食べたレストラン。
DunallyWaterfront

混んでいた。Dunalleyはダンオーリーと発音する。

昼食の魚フライ、ピザは旨かった。
私がこのフライドポテトはマックよりも薄味で美味くないと言ったら呆れらてしまった。なるほどジャンクフードの濃い味に慣らされた自分を反省した。14:17

牡蠣を食べたが、小さく乾いた感じで味が薄く旨くなかった。時期が悪かったのかもしれない。

右の建物の左半分がレストラン。14:45

上の写真を撮った場所に、東インド会社のアベル・タスマンがタスマニアに西欧人として最初に上陸した場所を示す碑がある。


タスマニアタイガー(フクロオオカミ)のナンバープレート。ガイドさんの車だ。
タスマニアタイガーは子袋で子供を育てた。タスマニアタイガーは1936年に絶滅した。


1906年にタスマニアで撮影されたタスマニアタイガー。

撮影年不明の写真。


上野の国立科学博物館には、はく製がある。下。

このはく製より、我が家のラブラドール犬のほうがタスマニアタイガー写真に似ているぞ。脊椎動物の生物標本は皮だけでなく骨を残すことが大切だな。

ちなみに日本の絶滅種
ニホンカワウソ。水質悪化と河川の護岸工事が原因という。餓死で絶滅だ。


2017.08.17

本当であればうれしい。

ニホンオオカミ。病気が流行り絶滅という。ニホンオオカミの写真は現存しないようで、この剥製が正しい姿がどうなのか分からないらしい。

そういえばニホントキも日本では絶滅したが、過去には渡り鳥の個体もいたことから、中国からもらい受けた子孫を佐渡で繁殖させているなあ。

ホバート帰着。15:50。知識が豊富なすごく感じの良いガイドさんだった。ありがとうございました。

部屋で夕食。

ホテルの窓から。 17:34.

大きいパノラマ写真



2015.02.12(木)

朝食はホテルで。
昼食はタスマニアンビーフ。オーストラリアで最初のステーキだ。サラダバーが付く。サラマンカプレース(SalamancaPl)の
Ball & Chain Grill。13:17

ステーキソースは付けないほうが美味い。この店は、前日のツアーガイドさんのご推薦の店だ。13:00頃に行ったらそのガイドさんと約10人の日本人ツアー客が食事をしていた。タスマニア旅行中に会った日本人は彼らだけだ。丁寧なツアーガイドさんで、彼らが食事を終えて店から出るときに、店の奥で食事をしていた我々のところへ挨拶に来た。ちなみに、タスマニアで中国人の団体ツアー客には何組も会った。

初日に夕食を摂ったレストラン(Maldini)のテラス席。


海事博物館を見学。15:40


タスマニア博物館。17時閉館と思って行ったら、16時閉館だった。地球の歩き方の記載ミスだった。

15:50に行ってタスマニアの動物館を10分だけ見せてもらった。
ウォンバットのはく製前で。15:54


タスマニアンデビルのはく製。こいつは見なくては‥。15:55


ハリモグラ。卵を産む哺乳類。卵はおなかで温める。
ハリモグラの大きさは猫より少し小さい程度。哺乳類の中で一番原始的で一億年前と変わらない動物と言われている。タスマニアには多く生息しているらしい。このはく製は鼻が欠け、背中のハリが抜けてかわいそうだ。

乳首はなく、母親のお腹の皮膚から汗のように分泌される乳を舐めて子が育つ。放送大学より。


博物館を出た。15:59

閉館間近で忙しいだろうに、写真を撮ってくれたりサービス満点の博物館だった。

ウールワース(WoolWorths)と隣のケーキ屋、酒屋へ買い出し後、ハンバーガーを買ってホテルへ。

寄ったハンバーガー屋。17:00

TheStandardという店だ。ここ

刺青と沢山のピアスをしているガラの悪そうなお兄さんが調理する店だった。販売員は可愛い女子高生。そういう組み合わせから犯罪が少ない安全な町なんだろうなと思った。

ウールワース横の広場の椅子に座りながら、美味しそうにハンバーガーを食べていた2人の女子高生に、ハンバーガー屋の場所を聞いた。一人がアジア系、一人がOZ系だ。分かりにくい場所だったのでアジア系の女の子が6、70mぐらい離れたこの場所まで案内してくれた。ハンバーガーを買った後に、ホテルへは遠回りになるが広場まで戻り、ハンバーガー袋を持ち上げながら彼女らにお礼を言ったら、とてもうれしそうな笑顔を見せながらはにかんだ。
彼女たちも観光客に親切にして良かったと思っただろうし、家族に話したらよい子に育っていると思われたずだな。


ホテルは白い屋根の建物である。部屋は左から3番目。港に突き出した埠頭にある。 17:27





ホバートの地図。黄色のところがスーパーマーケット。黒丸がホテル。



2015.02.13(金)

 シドニー
10:05発バージンオーストラリア航空のVA1531便でシドニー(Sydney)へ。
11:55シドニー着。


シドニーへ続く

2018/06/01



シドニーへ続く

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